「四季草花草虫図屏風」(蝶・蜻蛉)鈴木其一「春秋草木図屏風」

俵屋宗達「双犬図」※作品画像はすべて部分、細見美術館蔵

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古典の日絵巻第十二巻「王朝人の暮らし」

紫式部が生きた平安時代は、天皇を中心にした皇族や貴族が華やかな世界を繰り広げていて、その様子は『紫式部日記』をはじめとする女房たちの仮名日記や藤原道長の『御堂関白記』などから知ることができます。それらの文献から王朝の世界をのぞいてみます。来年はNHK大河ドラマ「光る君へ」で紫式部が主人公に。朧谷先生のお話から垣間見える平安王朝の基礎知識をゲットしましょう!

朧谷 壽

(おぼろや ひさし)

同志社女子大学名誉教授 日本古代史、平安時代の政治・文化 同志社大学文学部文化史学科卒業 主な著書に『源頼光』(吉川弘文館)『清和源氏』(教育社)『王朝と貴族』(集英社)『藤原氏千年』(講談社現代新書)『源氏物語の風景』『平安貴族と邸第』(吉川弘文館)『藤原道長』『藤原彰子』(ミネルヴァ書房)『平安王朝の葬送』(思文閣出版)紫式部顕彰会理事(京都) 公益財団法人古代学協会理事長 第5回から源氏物語アカデミー監修者に就任 古典の日推進委員会アドバイザー及び古典の日文化基金賞選考委員会副委員長 平成17年度京都府文化功労賞受賞 令和3年度京都市芸術振興賞受賞

二月号

賜姓皇族と光源氏

 藤原道長は藤原氏の娘を妻とせず、2人とも源氏、それも賜姓皇族(しせいこうぞく)の女性である。賜姓皇族とは皇族として生まれた人が姓を賜って臣下となった人をいう。何故そういうことが行われるのか。この時代は、家柄がよい家庭を前提として、彼らは娘を入内させ、そこに皇子の誕生を期待し、その皇子が帝位に即(つ)くことで、自らは外祖父として摂政・関白となって天皇政治を後見する、といったことを競ったのである。その結果、天皇には多くの妃が入り、沢山の皇子女が生まれることになる。もっとも多い例として嵯峨天皇の30人近い妃と50人ほどの皇子女を挙げることができる。このような状況が続けば皇室の財政が破綻しかねないので、その数を一定に保つためにとられた策が賜姓皇族〈臣籍降下(しんせきこうか)〉の制度である。嵯峨天皇の場合三十人余りの人が源姓を得て〈嵯峨源氏〉皇族を離れている。その場合、妃の地位の低い人の皇子から臣下としたのである。

 このことで想起されるのは『源氏物語』である。主人公は天皇を父としているから歴とした皇族である。しかし、母が妃のなかでは地位が低い桐壺(きりつぼ)に住まいする更衣(こうい)であったために臣下とされ源氏の姓を賜ったのである。いっぽう光源氏の母をいじめた弘徽殿(こきでん)に住まいする女御(にょうご)は、妃としては中宮に次ぐ高い地位だったために生んだ皇子は天皇〈朱雀院〉になっている。後宮(こうきゅう)〈内裏の北半分に設けられた妃らの住まい〉の配置を見ても中宮とか女御といった地位の高い妃の住まいは天皇の寝所である清涼殿の夜の御殿(よるのおとど)と至近のところにあり、桐壺などは最も遠いところにあった。それゆえ天皇のところまで来るのに多くの妃たちの部屋の前を通って来なければならず、嫌がらせや辱めを受けることになるのである。

 光源氏のモデルとして藤原道長や源融、源高明〈後者2人は左大臣に至った賜姓源氏〉らが挙がるが、紫式部の脳裏には尊貴性を兼ね備える賜姓皇族があったのだと思う。このことで道長は怒らなかったのだろうか。そのような口実を与えない紫式部の賢明さを思ってしまう。道長自身、が賜姓皇族を妻にしていたのである。

※2月のメニューの窓枠の写真は、京都御苑 清涼殿・昼御座(ひのおまし)と御帳台。帝がお昼を過ごすところです。