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「古典の日」からとっておきの情報や
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古典の日絵巻第十二巻「王朝人の暮らし」
紫式部が生きた平安時代は、天皇を中心にした皇族や貴族が華やかな世界を繰り広げていて、その様子は『紫式部日記』をはじめとする女房たちの仮名日記や藤原道長の『御堂関白記』などから知ることができます。それらの文献から王朝の世界をのぞいてみます。来年はNHK大河ドラマ「光る君へ」で紫式部が主人公に。朧谷先生のお話から垣間見える平安王朝の基礎知識をゲットしましょう!
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三月号 「この世は我が世」- 強運な男
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二月号 賜姓皇族と光源氏
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一月号 男は妻がらなり
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十二月号 紫式部と受領
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十一月号 清少納言と紫式部の家系
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十月号 外交的な清少納言と内向的な紫式部
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九月号 藤原道長と紫式部
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八月号 祇園祭と芸能
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七月号 疫病と御霊会
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六月号 賀茂祭-斎王代
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五月号 賀茂祭-路頭の儀
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四月号 紫式部が男だったら
二月号
賜姓皇族と光源氏
藤原道長は藤原氏の娘を妻とせず、2人とも源氏、それも賜姓皇族(しせいこうぞく)の女性である。賜姓皇族とは皇族として生まれた人が姓を賜って臣下となった人をいう。何故そういうことが行われるのか。この時代は、家柄がよい家庭を前提として、彼らは娘を入内させ、そこに皇子の誕生を期待し、その皇子が帝位に即(つ)くことで、自らは外祖父として摂政・関白となって天皇政治を後見する、といったことを競ったのである。その結果、天皇には多くの妃が入り、沢山の皇子女が生まれることになる。もっとも多い例として嵯峨天皇の30人近い妃と50人ほどの皇子女を挙げることができる。このような状況が続けば皇室の財政が破綻しかねないので、その数を一定に保つためにとられた策が賜姓皇族〈臣籍降下(しんせきこうか)〉の制度である。嵯峨天皇の場合三十人余りの人が源姓を得て〈嵯峨源氏〉皇族を離れている。その場合、妃の地位の低い人の皇子から臣下としたのである。
このことで想起されるのは『源氏物語』である。主人公は天皇を父としているから歴とした皇族である。しかし、母が妃のなかでは地位が低い桐壺(きりつぼ)に住まいする更衣(こうい)であったために臣下とされ源氏の姓を賜ったのである。いっぽう光源氏の母をいじめた弘徽殿(こきでん)に住まいする女御(にょうご)は、妃としては中宮に次ぐ高い地位だったために生んだ皇子は天皇〈朱雀院〉になっている。後宮(こうきゅう)〈内裏の北半分に設けられた妃らの住まい〉の配置を見ても中宮とか女御といった地位の高い妃の住まいは天皇の寝所である清涼殿の夜の御殿(よるのおとど)と至近のところにあり、桐壺などは最も遠いところにあった。それゆえ天皇のところまで来るのに多くの妃たちの部屋の前を通って来なければならず、嫌がらせや辱めを受けることになるのである。
光源氏のモデルとして藤原道長や源融、源高明〈後者2人は左大臣に至った賜姓源氏〉らが挙がるが、紫式部の脳裏には尊貴性を兼ね備える賜姓皇族があったのだと思う。このことで道長は怒らなかったのだろうか。そのような口実を与えない紫式部の賢明さを思ってしまう。道長自身、が賜姓皇族を妻にしていたのである。
※2月のメニューの窓枠の写真は、京都御苑 清涼殿・昼御座(ひのおまし)と御帳台。帝がお昼を過ごすところです。