「四季草花草虫図屏風」(蝶・蜻蛉)鈴木其一「春秋草木図屏風」

俵屋宗達「双犬図」※作品画像はすべて部分、細見美術館蔵

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古典の日絵巻第十二巻「王朝人の暮らし」

紫式部が生きた平安時代は、天皇を中心にした皇族や貴族が華やかな世界を繰り広げていて、その様子は『紫式部日記』をはじめとする女房たちの仮名日記や藤原道長の『御堂関白記』などから知ることができます。それらの文献から王朝の世界をのぞいてみます。来年はNHK大河ドラマ「光る君へ」で紫式部が主人公に。朧谷先生のお話から垣間見える平安王朝の基礎知識をゲットしましょう!

朧谷 壽

(おぼろや ひさし)

同志社女子大学名誉教授 日本古代史、平安時代の政治・文化 同志社大学文学部文化史学科卒業 主な著書に『源頼光』(吉川弘文館)『清和源氏』(教育社)『王朝と貴族』(集英社)『藤原氏千年』(講談社現代新書)『源氏物語の風景』『平安貴族と邸第』(吉川弘文館)『藤原道長』『藤原彰子』(ミネルヴァ書房)『平安王朝の葬送』(思文閣出版)紫式部顕彰会理事(京都) 公益財団法人古代学協会理事長 第5回から源氏物語アカデミー監修者に就任 古典の日推進委員会アドバイザー及び古典の日文化基金賞選考委員会副委員長 平成17年度京都府文化功労賞受賞 令和3年度京都市芸術振興賞受賞

十二月号

紫式部と受領

 前回で紫式部が父の赴任に同道して越前国に赴いた理由に、後に夫となる藤原宣孝(のぶたか)の執拗な求婚から距離を置くためであったと述べた。10世紀末のことである。式部は20代半ばにして都を離れて地方生活を体験したのである。彼女をはじめ王朝女流作家の多くは、教養ある受領の家庭の娘が多いことが共通点である。旅と縁遠い当時にあって、京で生まれた人は、都の周辺を知る程度で遠方の地方を知らずに生涯を終えるのが普通だった。とりわけ女性はそうである。したがって受領の家庭は、地方の様子を知る機会に恵まれ、このことか彼女たちの作品を豊かにしている。そこに描かれる地方は、各人が住んだ土地である。つまり清少納言なら周防国<国府は山口県防府(ほうふ)市に所在。10才の時、父の清原元輔の周防(すおう)守赴任にともない4年間過ごす。防府の地名は周防の国府からきている>

 

 式部なら越前国……というぐあいに。

 

 そういえば『源氏物語』の泰斗、故清水好子先生が「紫式部の武生<現、越前市>での生活の体験は『源氏物語』の〈手習〉〈玉鬘〉の巻に投影されている、特に自然描写の面などで……。都会のみの生活では出てこない。その意味で、和泉<式部>、<赤染>衛門らが地方生活体験者であったということは重要」と、生前に武生での源氏物語アカデミー<初期の監修者>で話されたことを思い出した。

 紫式部の父の藤原為時は花山天皇の突然の出家で失職、不遇な一時期を過ごした後、一条天皇代に淡路守の職を得たが下国であり、天皇に申文(もうしぶみ)<叙位・任官・官位の昇進など個人が朝廷に申請する自己推薦状>を送って苦哀を訴え、これが功を奏して大国の越前守に替われたのである。いっぽう越前守が決まって喜びに沸く源國盛(くにもり)は下ろされ、その年の秋に播磨守に決まった。この国は大国で越前国よりも条件がよいが、下ろされたショックで國盛は病となり、吉報を聞いて間もなく死去してしまう。なんとも気の毒な話だ。國盛は藤原道長の身内<乳母子(めのとご)>であり、一条天皇から為時のことを言われた道長は、身内のものに詰め腹をきらせたもののアフタケア―をしているが、國盛の命がもたなかった。受領に関わる悲喜交々の話題は尽きない。

 この時代の公務員<この言葉はないが要するに職員>は京官と地方官に分かれ、任命することを除目(じもく)といい、前者のそれを司召(つかさめし)、後者を県召(あがためし)と言った。数国の受領を経験すれば蔵が建つ、の譬えではないが、皆の関心を集めたのは地方官であった。紫式部の時代には日本は68ヵ国から成り、それが豊かな国とそうでない国など4等級に分かれていた。大和・河内・伊勢などは大国<13>、山城・摂津・丹波などは上国<35>、丹後・能登・安房などは中国<11>、和泉・伊賀・島などは下国<9>である。これら諸国の官人<守・介・掾(じょう)・目(さかん)の四等官と史生ほか>を国司と称した。このうちの守で実際に赴任した者を受領、収入だけを得て現地に赴かない者を遥任国司(ようにんこくし)と呼んだ。役所は国衙(こくが)<国庁とも>といい、その所在地を国府<府中とも>と称した。国の等級によって構成人員も規模も異なっていた。頂点に立つ受領も身分、収入などの点で大きな開きがあったのである。

 端的に言えば、守は今の県知事に相当するが、内実は大きく違う。先ずその国の人でないということ、つまり中央から派遣されるのである。それに、人選に国人は無関係であり、中央で決めて派遣されるのである。希望者は闕国(けっこく)<国司などが欠員となっている国>を見て、身分相応の官に狙いをつけて申文を提出する。今日に遺る申文を見ると誇張、哀願……といった様々なパターンがあるが、中には名を書き忘れているのもあって気の毒の極みだ。集まった申文に嘘偽りがないか、役所でチェックし、書類審査を通過したものが清涼殿の天皇の御前で公卿会議にかけられ、決定を見るのである。ここで力を発揮するのが摂政・関白らトップクラスの公卿である。この日のために受領たちは日ごろからそういう人たちへの付け届けを怠らない。私情が幅を利かし、公的に罷り通る人事。今日なら大変なことになる。卑近な例になるが、藤原道長の土御門殿(つちみかどどの)<栄華の舞台と言ってよい。今日の京都御苑の東部、迎賓館の南に所在、9千坪ほどの広さ>の門前には朝から晩までクロネコヤマトの車が 引っ切り無しに往来していたことであろう。