「四季草花草虫図屏風」(蝶・蜻蛉)鈴木其一「春秋草木図屏風」

俵屋宗達「双犬図」※作品画像はすべて部分、細見美術館蔵

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古典の日絵巻第十二巻「王朝人の暮らし」

紫式部が生きた平安時代は、天皇を中心にした皇族や貴族が華やかな世界を繰り広げていて、その様子は『紫式部日記』をはじめとする女房たちの仮名日記や藤原道長の『御堂関白記』などから知ることができます。それらの文献から王朝の世界をのぞいてみます。来年はNHK大河ドラマ「光る君へ」で紫式部が主人公に。朧谷先生のお話から垣間見える平安王朝の基礎知識をゲットしましょう!

朧谷 壽

(おぼろや ひさし)

同志社女子大学名誉教授 日本古代史、平安時代の政治・文化 同志社大学文学部文化史学科卒業 主な著書に『源頼光』(吉川弘文館)『清和源氏』(教育社)『王朝と貴族』(集英社)『藤原氏千年』(講談社現代新書)『源氏物語の風景』『平安貴族と邸第』(吉川弘文館)『藤原道長』『藤原彰子』(ミネルヴァ書房)『平安王朝の葬送』(思文閣出版)紫式部顕彰会理事(京都) 公益財団法人古代学協会理事長 第5回から源氏物語アカデミー監修者に就任 古典の日推進委員会アドバイザー及び古典の日文化基金賞選考委員会副委員長 平成17年度京都府文化功労賞受賞 令和3年度京都市芸術振興賞受賞

一月号

男は妻がらなり

 天皇に代わって政務を執った人を摂政・関白(略して摂関)といい、千年におよぶ摂関の歴史の中で最長の半世紀に及んでその職にあったのは藤原頼通〈992~1074〉であった。この任に就くためには天皇との外戚関係が前提であり、そのもっとも強力な関係は、天皇に入れた娘が生んだ皇子が天皇になることである。そのことによって外祖父として政治を行うことが叶ったのである。その点で最大の努力をし、成功したのが藤原道長〈966~1027〉であった。その嫡男として生まれたのが頼通であるが、彼の摂関は父の努力の賜物以外の何物でもなく、頼通自身は努力はしたが成果を挙げ得なかった。
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 頼通は18歳のときに村上天皇の孫娘で15歳の隆姫女王〈995~1087〉と結婚した。この時、道長はこのように家柄の高い娘と結婚することが大切である、「男は妻(め)がらなり〈妻しだいだ〉」と言って喜んだ。当時の貴族たちは婿取婚(むことりこん)が一般的であり、男は女のもとへ通ったのである。そして、やがて住みこむ形になるが、その時期などについては漠然としている。道長の場合をみると、妻の源倫子〈964~1053、宇多天皇の曾孫〉のもとへ通っていて、長女の彰子〈988~1074、一条天皇中宮〉が誕生のころ住みこんだと考えられる。その邸というのは道長の栄華の舞台となった豪邸の土御門殿(つちみかどどの)であり、源倫子の邸宅であったものを結婚を通して得たのである。したがって婿の世話は妻方でみることになる。道長はもう一人の妻の源明子〈965~1049、醍醐天皇孫〉にはこの邸から通ったのである。それぞれに6人の子が誕生している。それと、結婚しても女性は姓を変えず、墓も実家の墓に入ったのである。ただ、子供は父親の姓を唱える。そういうわけで源倫子の亡骸は藤原氏の墓地の木幡〈宇治市〉には入らず、宇多源氏の墓地である仁和寺の裏山に埋葬されている。

 頼通に話を戻そう。隆姫女王は93歳という破格の長寿を保ったが、子をなさなかった。そんなさなか三条天皇〈976~1017、在位1011~16〉から皇女の降嫁の話が来たのを道長が喜んで頼通に伝えると隆姫への愛から涙を浮かべて聞いたという。そこで道長が吐いた言葉が「男が妻一人なんて馬鹿げたことよ。今まで子もいないのにどんなことをしてでも子を設けることを考えるべきだ」と〈『栄花物語』〉。この話は沙汰止みになった。

 隆姫は大変な焼餅焼きだったという〈『愚管抄』〉。一方の頼通は彼女一筋のように記されているが史実はそうではない。隆姫と縁続きの女房〈藤原祇子〉と親しくなり6人の子を設けている。初めに生まれた3人の男子は隆姫の手前、他家へ養子に出されたが、弟の師実は摂関を継いだ。娘の寛子はこれまた長寿で92歳まで生きたか、子には恵まれなかった。さらには祇子と結ばれる前に村上天皇孫の源憲定の娘との間に通房〈1025~44〉が生まれており、この最初の子が生まれた時には道長とともに大変喜んだが、通房は20歳で早世してしまう。頼通もそれなりに努力しているのに不運というしかない。

 この時代は能力よりも家柄がその人の生涯を大きく左右したのである。それゆえ生まれた時点でその人の一生はある程度決まっているといえよう。