「四季草花草虫図屏風」(蝶・蜻蛉)鈴木其一「春秋草木図屏風」

俵屋宗達「双犬図」※作品画像はすべて部分、細見美術館蔵

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古典の日絵巻第十二巻「王朝人の暮らし」

紫式部が生きた平安時代は、天皇を中心にした皇族や貴族が華やかな世界を繰り広げていて、その様子は『紫式部日記』をはじめとする女房たちの仮名日記や藤原道長の『御堂関白記』などから知ることができます。それらの文献から王朝の世界をのぞいてみます。来年はNHK大河ドラマ「光る君へ」で紫式部が主人公に。朧谷先生のお話から垣間見える平安王朝の基礎知識をゲットしましょう!

朧谷 壽

(おぼろや ひさし)

同志社女子大学名誉教授 日本古代史、平安時代の政治・文化 同志社大学文学部文化史学科卒業 主な著書に『源頼光』(吉川弘文館)『清和源氏』(教育社)『王朝と貴族』(集英社)『藤原氏千年』(講談社現代新書)『源氏物語の風景』『平安貴族と邸第』(吉川弘文館)『藤原道長』『藤原彰子』(ミネルヴァ書房)『平安王朝の葬送』(思文閣出版)紫式部顕彰会理事(京都) 公益財団法人古代学協会理事長 第5回から源氏物語アカデミー監修者に就任 古典の日推進委員会アドバイザー及び古典の日文化基金賞選考委員会副委員長 平成17年度京都府文化功労賞受賞 令和3年度京都市芸術振興賞受賞

五月号

賀茂祭-路頭の儀

 
 一年のうちでもっとも新緑が美しく爽やかなのは5月。この時分に四条烏丸辺りから祇園社の方を眺めると緑の厚い絨毯を敷き詰めたように東山がとても間近に見える。そして5月といえば京都の三大祭のトップを飾って賀茂祭が行われる。この祭りは京都に都が定まる以前に起源をもつが、もっとも盛んだったのは貴族が繁栄した平安時代である。その目的は、天皇がその年の国家安寧(こっかあんねい)と五穀豊穣(ごこくほうじょう)を願って下鴨神社(正式には賀茂御祖(かもみおや)神社)と上賀茂神社(賀茂別雷(わけいかずち)神社)に奉幣することにあり、天皇の名代として派遣される人を勅使(ちょくし)<祭使>と呼んだ。平安時代に勅使が遣わされる祭り(勅祭という)は賀茂祭のほかに石清水(いわしみず)祭、春日祭しかない。なお、俗称の上賀茂、下鴨は位置関係からの名称であり、字の違いは川の名にちなむ。つまり高野川と合流以南を鴨川、それまでは賀茂川というところから。この祭りは流鏑馬(やぶさめ)とか競馬(くらべうま)といった付随のさまざまな神事があるが、ここでは路頭の儀を中心に見ておこう。

 むかしは陰暦4月の中酉(なかのとり)の日(だいたい中旬)に路頭の儀・社頭の儀、その3日前に斎王御禊(さいおうごけい)<斎王が社頭の儀に備えて鴨川で禊をする>、路頭の儀の翌日の還立(かえりだち)<「祭のかへさ」>である。これを陽暦にすれば、こんにちの5月中頃となるから新緑がもっとも美しい時期である。また、この祭りが葵祭の名で通っていることについては、当初から祭列に加わる人や車、また建物を葵や桂の葉で飾りたてたが葵祭の名はなかった。それが盛んに言いだされたのは江戸時代になってからである。そこには徳川家の三つ葉葵が意識されていることは言うまでもなかろう。

 路頭の儀に先立って3日前の5月12日(以下こんにち挙行の日時)、両賀茂社では新しい神を迎える儀を執り行っている。下鴨社は、叡山の西麓の御蔭(みかげ)山に鎮座する御蔭神社から、上賀茂社は本殿北の丸山の南麓に設けられた御阿礼(みあれ)所から、それぞれ新しい若い神を迎えるのである。前者を御蔭(みかげ)祭、後者を御阿礼(みあれ)祭(この方は深夜に奉仕する神職以外は見ることが許されない)と称している。

 路頭の儀の当日、出発に先立って宮中の儀というのがあり(こんにちは行われていない)、天皇から紅紙に書かれた宣命(せんみょう)<天皇の命令を宣(の)べた文書。ここでは御祭文をいう>を賜り、幣物(下鴨社は祭神が2座ゆえ2個、上賀茂社は1座ゆえ1個)とともに諸使を引き連れて内裏を出立する。

 勅使の行列は、一条堀川の「列見(れけん)の辻」で、紫野の斎院(斎王の御所)を出て待機していた斎王列が合流して(約500人ほど)一条大路を東進して下鴨社へと向かう。これを見物しようと一条大路には桟敷(さじき)や物見車(ものみぐるま)が所狭しと立ったのである。平安時代のその様子を示す唯一の史料が『年中行事絵巻』に見られる。行列は最初に下鴨社に入って社頭の儀を行う。勅使が宣命を読み神官へ渡し、幣物とともに神前へ。次いで神官が「返し祝詞(のりと)」を読み、神禄を勅使へ。この儀式のあと東遊(あずまあそび)<歌舞>などがある。下鴨社を出発した一行は上賀茂社へと向かい、到着すると、そこでも社頭の儀を行う。このあと勅使一行は宮中へ戻り報告して終わる。斎王一行は紫野の斎院へ還御するが、遅くなると上賀茂社の神館(こうだち)で泊して翌朝に帰る。これを「還立(かえりだち)」とか「祭のかへさ」と呼んだ。清少納言が『枕草子』(208段)で、「見てすばらしいもの」として「祭のかへさ」を挙げている。その情景は神館で泊まって翌日に斎院御所に帰る行列を早くから車を立てて待っている聴衆の様子を述べたものである。

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 賀茂祭の路頭の儀は、しばしば中座され、15世紀半ばの応仁・文明の乱では200年もの間中止されている(社頭における祭典は行われている)。紫式部も物見車から賀茂祭を何度となく見物したに違いない。