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古典の日絵巻第十二巻「王朝人の暮らし」
紫式部が生きた平安時代は、天皇を中心にした皇族や貴族が華やかな世界を繰り広げていて、その様子は『紫式部日記』をはじめとする女房たちの仮名日記や藤原道長の『御堂関白記』などから知ることができます。それらの文献から王朝の世界をのぞいてみます。来年はNHK大河ドラマ「光る君へ」で紫式部が主人公に。朧谷先生のお話から垣間見える平安王朝の基礎知識をゲットしましょう!
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三月号 「この世は我が世」- 強運な男
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二月号 賜姓皇族と光源氏
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一月号 男は妻がらなり
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十二月号 紫式部と受領
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十一月号 清少納言と紫式部の家系
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十月号 外交的な清少納言と内向的な紫式部
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九月号 藤原道長と紫式部
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八月号 祇園祭と芸能
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七月号 疫病と御霊会
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六月号 賀茂祭-斎王代
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五月号 賀茂祭-路頭の儀
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四月号 紫式部が男だったら
十一月号
清少納言と紫式部の家系
雪が降り積もっていたので、格子を下ろしたまま炭櫃(すびつ)に火をおこして女房たちが大勢で話をしていた。すると、中宮定子が清少納言に、「香炉峯(こうろほう)の雪、いかならむ」<香炉峯の雪はどんなでしょう>と、仰せられたので、即座に格子を上げさせ、御簾(みす)を高く巻き上げたところ、中宮は、わが意を得たり、と微笑(ほほえ)まれた。この故事は宮仕えするような人なら誰でも知っていることではあるが、咄嗟(とっさ)のことで思いつきもしなかった。それを打てば響く、機転の早さに中宮は、自分に仕える女房として最適、と清少納言を自慢したのである。これを自分の随筆、『枕草子』に書く、その厚顔(こうがん)さが、紫式部の癇に障るのである。その故事とは……。中国は唐の詩人白居易(はくきょい)<字(あざな)は楽天(らくてん) 772~846>の詩文集『白氏文集(はくしもんじゅう)』にみえる詩句、「香炉峯の雪は簾(すだれ)を掲げて看(み)る」<原文は漢文体>のことである。『白氏文集』は平安時代にわが国に伝わり、広く愛読され、当時の文学に大きな影響を与えた。私は35年前に雨に煙る香炉峯<廬山(ろざん)の一峰>を訪ねたが、山頂が香炉の蓋のような形をしていた。
清少納言と紫式部の教養の根源は家系に大きく左右されているように思う。清少納言の父、清原元輔(きよはらのもとすけ)<908~990>は三十六歌仙の1人で、わが国で二番目にできた勅撰和歌集<天皇の命を受けて撰集された歌集>である『後撰和歌集』<村上天皇の命による>の撰者になるほどの歌人である。百人一首に「契(ちぎり)きなかたみに袖をしぼりつつ末の松山(まつやま)波越(こ)さじとは」の歌が採られている。また、曽祖父<祖父とも言われる>の深養父(ふかやぶ)は中古歌仙(ちゅうこかせん)三十六人の1人に挙げられ、勅撰集に多くの歌が採られ、百人一首には「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ」の歌が入っている。このように清少納言は和歌を専門とする家柄である。
いっぽう紫式部は、父の為時をみると文章生(もんじょうしょう)<大学寮で漢文学や中国史を学んだ学生>出身であることが示すように漢文学に通じ、詩文の才能は当代随一であった。彼が淡路守<下国>から越前守<大国>に替われたのは、苦哀の申文(もうしぶみ)<漢文体の自己推薦状>を一条天皇に奏上し、これが藤原道長<966~1027>を動かして実現したという。まさに芸<漢学>は身を助ける、である。為時が越前国<国府は福井県越前市に所在>へ下った前年に宋人<中国人>70余人が若狭国に漂着し、越前国へ移されている。赴任した為時はこの対応に当たったのである。この宋人の漂着が為時の越前守補任に有利に働いたとも考えられる。後に紫式部の夫となる藤原宣孝(のぶたか)は、越前にいる紫式部の心をつかむために宋人の一件を「唐人(からびと)見に行かむ」、宋人を見がてらそちらへ行きます、「春になったら氷も溶ける」ように「あなたの心も解ける」と誘っている。これに対して式部は「北国の山には雪が積もってそう簡単には解けませんよ」と答えている。この時は応じなかった式部も、退屈な田舎暮らしに飽きたところへ、宣孝から都の文化の香り<歌会などの様子を記した消息>がどんどん送られてくる。距離を置いたはずの男が、環境が変わるとよく見えてきて、式部は都への思慕が膨らみ、在国1年余りで単身、帰京して結婚する。宣孝は父親ほど年上で数人の妻がおり、通って来たのである。やがて娘の賢子を生むが、間もなく夫は他界。里で物語を書きつつ暮らし、やがて道長の娘で一条天皇の中宮彰子のもとに出仕することになる。
筆写撮影の香炉峯(1988年撮影)