古典の日絵巻Picture scroll
「古典の日」からとっておきの情報や
こぼれ話などをお届けします。
古典の日絵巻第十二巻「王朝人の暮らし」
紫式部が生きた平安時代は、天皇を中心にした皇族や貴族が華やかな世界を繰り広げていて、その様子は『紫式部日記』をはじめとする女房たちの仮名日記や藤原道長の『御堂関白記』などから知ることができます。それらの文献から王朝の世界をのぞいてみます。来年はNHK大河ドラマ「光る君へ」で紫式部が主人公に。朧谷先生のお話から垣間見える平安王朝の基礎知識をゲットしましょう!
-
三月号 「この世は我が世」- 強運な男
-
二月号 賜姓皇族と光源氏
-
一月号 男は妻がらなり
-
十二月号 紫式部と受領
-
十一月号 清少納言と紫式部の家系
-
十月号 外交的な清少納言と内向的な紫式部
-
九月号 藤原道長と紫式部
-
八月号 祇園祭と芸能
-
七月号 疫病と御霊会
-
六月号 賀茂祭-斎王代
-
五月号 賀茂祭-路頭の儀
-
四月号 紫式部が男だったら
十月号
外交的な清少納言と内向的な紫式部
自分は控え目だ、と言ってのける紫式部は、清少納言に対しては手厳しい。
清少納言は得意顔をして偉そうにしていた人です。あれほど賢(かしこ)ぶって漢字を書き散らしているけれど<真名書きちらし>、よく見れば、足りない点が沢山あります。彼女のような目立ちたがり屋は、思った以上に見劣りがして、ゆく先は悪くなっていき、こういう人の末路が、どうしてよいことがありましょうか。
まるで口論した直後に日記に向かったような感がする。この清少納言評の前に和泉式部と赤染衛門評もあるが、この2人に対しては賛辞を呈しつつも結論は、自分のほうが上、と言わんばかりである。負けず嫌いの式部の一面を垣間見る気がする。ここで思い出してほしいのは、「紫式部が男だったら」の冒頭で紹介した姉弟の教養に関わる父親の言葉である。よく考えると、あの話は、他人が書いているなら美談として讃えられもするが、式部本人が書いていることを考えると、自慢以外の何ものでもなかろう。紫式部の控え目に騙されてはならない。実は、誰よりも教養あることを喧伝(けんでん)しているのである。
ところで紫式部と清少納言、この両人は顔を合わせたことがあるだろうか。紫式部の物言いから、よく顔を合わせていたように錯覚するが、おそらく会ったことはなかろう。清少納言が仕えた一条天皇の中宮、藤原定子(977∼1000)が亡くなって5、6年後に紫式部が中宮、藤原彰子(988∼1074)のもとへ出仕しているので。それなのに目の敵のようにしているのは、紫式部が出仕した時、一条天皇の後宮は清少納言の評判で持ちきりだったのであろう。それに対する対抗意識の表れというか、嫉妬と見たい。このことを脳裏において時代祭を見る時、いつもほくそ笑んでしまう。清少納言と紫式部が一つ車に乗って、にこやかにしている姿、これは歴史事実ではない。
清少納言は『源氏物語』を読んだ可能性はないに等しい。いっぽう紫式部が『枕草子』を読んだ可能性はどうであろうか。清少納言は『枕草子』について、「人に見られることもなかろうと思い、あれこれ書き留めて隠しておいたのに人目に触れてしまった。読まれたら都合の悪いこと、差し障りのあることもある」と記している。もし紫式部が読んでいたら、あの程度の批評では済まないかも。
めぐりあいて見しやそれとも分かぬまに雲がくれにし夜半(よわ)の月かな
幼友だちに久しぶりに会ったとき、と詞書にある紫式部の歌。百人一首に採るときに撰者の藤原定家はどういう意図でこの一首を選んだのか、知りたいところだ。作者が大物だけに歌意も複雑そうだ。
時代祭では京都御苑、御池通、平安神宮道に有料観覧席を設置します。
時代祭については → 京都観光Navi