「四季草花草虫図屏風」(蝶・蜻蛉)鈴木其一「春秋草木図屏風」

俵屋宗達「双犬図」※作品画像はすべて部分、細見美術館蔵

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古典の日絵巻第十二巻「王朝人の暮らし」

紫式部が生きた平安時代は、天皇を中心にした皇族や貴族が華やかな世界を繰り広げていて、その様子は『紫式部日記』をはじめとする女房たちの仮名日記や藤原道長の『御堂関白記』などから知ることができます。それらの文献から王朝の世界をのぞいてみます。来年はNHK大河ドラマ「光る君へ」で紫式部が主人公に。朧谷先生のお話から垣間見える平安王朝の基礎知識をゲットしましょう!

朧谷 壽

(おぼろや ひさし)

同志社女子大学名誉教授 日本古代史、平安時代の政治・文化 同志社大学文学部文化史学科卒業 主な著書に『源頼光』(吉川弘文館)『清和源氏』(教育社)『王朝と貴族』(集英社)『藤原氏千年』(講談社現代新書)『源氏物語の風景』『平安貴族と邸第』(吉川弘文館)『藤原道長』『藤原彰子』(ミネルヴァ書房)『平安王朝の葬送』(思文閣出版)紫式部顕彰会理事(京都) 公益財団法人古代学協会理事長 第5回から源氏物語アカデミー監修者に就任 古典の日推進委員会アドバイザー及び古典の日文化基金賞選考委員会副委員長 平成17年度京都府文化功労賞受賞 令和3年度京都市芸術振興賞受賞

九月号

藤原道長と紫式部

 
 紫式部が一条天皇の中宮・藤原彰子のもとへ宮仕えに上がったのは30代半ばである。高い教養が邪魔したのか、男性に恵まれず、通ってきた、父親ほど年の離れた夫<数人の妻あり>も2年ほどで娘<賢子>を残して他界。式部は里にさがって執筆を始めていた頃、教養を買われて出仕することになった。その数年後、彰子<21歳>が出産のため里下がりしたのは父道長の豪邸、土御門殿<京都御苑内の東部、迎賓館の南>である。式部も他の女房たちと随伴した。式部の住まいは寝殿と東の対をつなぐ渡殿の部屋を与えられた。ある夜のこと、式部が寝んでいると誰かが頻りに戸をノックするが、恐ろしくて声もあげずに夜を明かした。すると早朝に歌が届いた<『紫式部日記』『紫式部集』>。

  夜もすがら水鶏(くゐな)よりけになくなくぞ 真木(まき)の戸口に叩きわびつる

  <戸を叩く音のように鳴く水鶏、私はそれに負けないぐらい泣きながら一晩中、戸を叩きあぐねたことだ。むかし鴨川には水鶏が沢山いた、その象徴が京都市営地下鉄の「くいな橋」である>

歌の主が道長と知っている式部は次のように返した。

  ただならじとばかり叩く水鶏ゆゑ 開けてはいかにくやしからまし

  <ただ事ではないと思われる叩き方でしたが、本当はつかの間の出来心でしょう、そんな水鶏さんゆえ、戸を開けていたらどんなに悔しい思いをしたことでしょう>

 この歌をめぐって2人の間に男女の関係があったか、なかったか、早くから詮索が行われている。室町時代に編纂された系図集成『尊卑分脈』の紫式部のところには「御堂関白道長妾云々」とある。真偽は不詳だが、道長は関白にはなっていない。しかし、彼の日記は『御堂関白記』として伝来しているから認識はそうだったのであろう。思うに、式部はこのときには拒んでも後には身をゆだねたことであろう。女房たちは、祝いの席などで公卿・殿上人らと交流の機会があり、声をかけられることもあった。土御門殿での「五十日(いか)の祝い」の宴会の様子が『紫式部日記絵巻』に描かれているが、女房らがほろ酔い気分の公卿らに捕まって何やら口説かれている姿も見受けられる。とりわけ独り身の女房にとっては身分高き公卿と接することは誇りであった。清少納言が教養高き公卿の藤原行成に憧れを抱いていたことが『枕草子』に記されている。
 道長といえば当時の最高の男性、その男性から声がかかることは最高の栄誉、一方の彼女は落ちぶれた寡婦。ただ、身についた教養が光っていた。多くの研究者が黙認するように正式の妻にはなっていないが、折々の男と女の関係であったかと思う。それも人目を忍んでの……。そうさせたのは道長の妻も子女たちも式部の近辺に存在していたから。式部は道長の腕の中で睦言(むつごと)に添えて父や弟のよりよい職を懇願していたことであろう。ただ、父が下国の淡路守になったのを大国の越前守に替わった、この栄転は紫式部の道長への働きかけではない。何故ならば、この時の式部は20代半ばで独身であり、宮仕え前で道長をまだ知らない。後に夫となる藤原宣孝(のぶたか)の執拗な求婚から距離を置くために父の赴任に同行したのである。越前下向と受領<国司>のことは別の回で述べることにして式部と道長の関係について附言しておこう。
 式部は、日記に「源氏の物語、御前にあるを、殿の御覧じて」と記している。『源氏物語』の名の早い登場とともに中宮彰子の傍らに置いてあったのに道長が目をとめて、とりとめない冗談を言ったついでに梅の下に敷いてあった紙に次の歌を書いてよこした。

  すきものと名にし立てれば見る人の 折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ

  <梅の実はすっぱくておいしいから枝を折らないで見のがす人はいない>

わたしの返歌。

  人にまだ折られぬものを誰かこの すきものぞとは口ならしけむ

  <梅はまだ人に居られてないのに誰が酸い実を食べて口を鳴らしたのでしょう>

 私はまだ口説かれたこともないのに誰が酸<好>き物、浮気者なんて噂を立てたのでしょうか。
 冒頭の歌のあとにこの歌が記されている。皆さんは2人の関係をどう見ますか。

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土御門殿・法成寺周辺図 土御門殿・法成寺・鴨川-模型 土御門殿跡 土御門殿-復元模型