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古典の日絵巻第十二巻「王朝人の暮らし」
紫式部が生きた平安時代は、天皇を中心にした皇族や貴族が華やかな世界を繰り広げていて、その様子は『紫式部日記』をはじめとする女房たちの仮名日記や藤原道長の『御堂関白記』などから知ることができます。それらの文献から王朝の世界をのぞいてみます。来年はNHK大河ドラマ「光る君へ」で紫式部が主人公に。朧谷先生のお話から垣間見える平安王朝の基礎知識をゲットしましょう!
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三月号 「この世は我が世」- 強運な男
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二月号 賜姓皇族と光源氏
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一月号 男は妻がらなり
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十二月号 紫式部と受領
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十一月号 清少納言と紫式部の家系
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十月号 外交的な清少納言と内向的な紫式部
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九月号 藤原道長と紫式部
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八月号 祇園祭と芸能
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七月号 疫病と御霊会
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六月号 賀茂祭-斎王代
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五月号 賀茂祭-路頭の儀
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四月号 紫式部が男だったら
八月号
祇園祭と芸能
前に疫病のことを記したが、それを鎮めるためにはじまったものに祗園祭がある。今は7月に行われるが、昔は6月<陰暦>であり、季節的に変わりはなく、疫病が流行し易い時期である。平安時代の文献には祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)、祇園天神会(ぎおんてんじんえ)、祇園会(ぎおんえ)などとして登場しており、この言い方に祭りの意味が込められていよう。
この祭りは平安遷都以前から行われており、社伝によると、神泉苑の御霊会から6年後の869年、疫病流行にさいし、その退散を祈願して全国の国数に倣って66本の鉾<長さ約6㍍>を担いで祇園社<明治維新から八坂神社>から神泉苑へ送ったのを初見とする。ここで鉾を本数で表現していることに注目したい。ところで、平安時代の祇園祭の姿を伝える唯一の絵画資料が『年中行事絵巻』に見える。この絵巻は後白河上皇の命で制作されたもので、12世紀中頃の姿を伝えていると考えられ、そこには穂木(ほこ)<榊や杉の枝に清浄を表わす白い紙を結んで神の依代(よりしろ)とした>を手にした数人の男児、その後方に剣鉾(けんぼこ)を担いだ4人の男どもが先導し、3基の神輿(祇園社は三神)が続く。この鉾なら何本という数え方も納得がいく。しかし、応仁の乱を経て16世紀以降の姿を伝える『洛中洛外図屏風』で目にする山や車のついた大型の鉾は、こんにち目にするものと同じである。この鉾は1基、2基と数える。つまり平安時代には後世いうところの山鉾は登場していないのである。何時から変化したのか、はっきりしたことは判らないが、ヒントはある。室町幕府三代将軍足利義満が行列を見物している時、「高大な鉾」が倒れて老尼が圧死している。これにより14世紀の後半には鉾の大型化が知られるというもの。
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そういうことになると絢爛豪華な鉾の登場以前、行列の見どころは何であったのか。いみじくも清少納言が『枕草子』の中で「心地よげなるもの」<見ていてスカッとするもの>として「御霊会の馬長(うまのおさ)」を挙げている。王朝期にあってはこれが主役であった。馬長とは童たちを美しく着飾って馬に乗せ行列に加わった輩を言い、天皇、上皇、貴族たちが調献者(ちょうけんしゃ)となって華美を競ったのである。多い時には70人という例もある。
それと田楽(でんがく)を見逃すことはできない。数百人という時もあった。11世紀初頭の祇園会の期間中<6月7日~14日>のこと、平安京は異様な熱気に包まれた。鼓笛の音にあわせて京の住人たちは狂ったように田楽に興じた。それは、皇族・貴族から下層民さらには僧侶とあらゆる階層を巻きこんで来る日も来る日も踊り続け、交通の妨げになったという。しかも祇園御霊会にことよせているものだからうっかり取り締まりもできない。マス・ヒステリアともいうべき現象は2ヵ月ほど続いて平静を取り戻している。その具体的な様子は大江匡房の『洛陽田楽記(らくようでんがくき)』に詳しい。こういった田楽とか今様などといった、いわゆる雑芸(ぞうげい)が中世から近世にかけて芸能として昇華され、歌舞伎、能などが生み出されていくのである。
画像:『年中行事絵巻』「祇園御霊会」