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「古典の日」からとっておきの情報や
こぼれ話などをお届けします。
古典の日絵巻第十二巻「王朝人の暮らし」
紫式部が生きた平安時代は、天皇を中心にした皇族や貴族が華やかな世界を繰り広げていて、その様子は『紫式部日記』をはじめとする女房たちの仮名日記や藤原道長の『御堂関白記』などから知ることができます。それらの文献から王朝の世界をのぞいてみます。来年はNHK大河ドラマ「光る君へ」で紫式部が主人公に。朧谷先生のお話から垣間見える平安王朝の基礎知識をゲットしましょう!
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三月号 「この世は我が世」- 強運な男
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二月号 賜姓皇族と光源氏
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一月号 男は妻がらなり
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十二月号 紫式部と受領
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十一月号 清少納言と紫式部の家系
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十月号 外交的な清少納言と内向的な紫式部
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九月号 藤原道長と紫式部
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八月号 祇園祭と芸能
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七月号 疫病と御霊会
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六月号 賀茂祭-斎王代
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五月号 賀茂祭-路頭の儀
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四月号 紫式部が男だったら
七月号
疫病と御霊会
この数年、コロナ禍の蔓延で人の暮らしは一変し、落ちついてきた今日においても以前の生活を取り戻していない。いかに文明が発達しても天変地異とか流行病に逆らうことはできないことを証明している。その意味では王朝社会の人たちと何ら変わらない。ただ、違うのは現状把握の温度差とそれへの対応であろう。メディアが発達した今日なら何処にいても即座に現状を認識し、ワクチンなど対処が叶う(効果の有無は別として)。しかし、王朝期にあってはそうはいかない。疫病が蔓延して、人がばたばた死んでいっても多くの人は何が起きているのか、現状を把握できない。情報が人伝(ひとづて)に広まり、その間に誤伝や誇張が生じる。疫病流行に際して王朝時代にこんなことがあった。
10世紀末のある夏、咳病(がいびょう)<咳を主な症状とする病>と疱瘡が流行して多くの人が亡くなっていった。これに対して朝廷では読経や奉幣祈願といった神仏に消除を頼るほか術(すべ)がなかった。年が明けても収まるどころか、晩春から「疫病死の輩は幾千を知らず」とあり、さまざまな祈祷も効果がなかった。
いっぽうで検非違使(けびいし)の下役人<犯人の逮捕や獄舎の管理を任務とする>らに命じて路頭に仮家を構え、病人を出し置かせている。そのせいもあって路頭に死人が満ち溢れ、往來の人は、みな鼻を掩(おお)って通り過ぎている。さらには、その死体を鳥や犬が喰い、骸骨が巷(ちまた)を塞(ふさ)いだという。今日のコロナからは想像もできない惨憺(さんたん)たる有様であり、さすがに文明が発達した今日では、このようなことはない。
街路にまで死体が放棄される状況のなかでこんな噂が広まった。ある人が云うには、京都は三条油小路にある井戸の水を飲むと疫病から免れる、と。その井戸は水が枯れて泥が深く溜まり、常には使っていなかった。これを耳にした都人たちは貴賤を問わず桶や瓶で泥水を汲んでは盥(たらい)に貯えたという。コロナ禍のマスクの買占めによる品切れなどは、これに相当する話である。対象が違うだけで人間の心理は変わらぬものである。
また、こんな話も取り沙汰された。「疫神(えきじん)<疫病をはやらせる疫病神>が横行するので子女は出歩かないように」といった妖言があったので、上は公卿から下は庶民に至るまで、みな門戸を閉めて往来の人はなかったという。そして疫神を祓うために御霊会(ごりょうえ)を行い、二基の御輿を造り、平安京外の北野と船岡山に祀り、読経をさせ、音楽を献上させた、と。老人や子供をふくめ集まった人は「幾千人を知らず」とあり、みな幣帛(へいはく)を捧げたという。文明の未発達な時代には、このような妖言が実(まこと)しやかに言い触らされ、大衆がひとつの行動に出てしまう傾向にある。
当時の人は疫病を齎(もたら)すのは非業(ひごう)の死を遂げた人たちの怨霊のせいと考え、それを鎮める祭を盛んに行った。これを御霊会と呼んだ。その早い例として9世紀中期の神泉苑でのそれが知られる。夏にかけて猛威を振るっている咳逆病(がいぎゃくびょう)<感冒疾患>を鎮めるために陰陽師(おんみょうじ)を派遣し、祭壇を設けて崇道(すどう)天皇<桓武天皇の実弟で廃太子となり、淡路島に配流の途次に憤死した早良(さわら)親王>をはじめ六柱の御霊の前に花果を供え、僧に読経させ、楽人に音楽を奏させ、舞人に舞わせている。やがて菅原道真が登場すると御霊の代表格の存在になる。その一方で怨霊を神として祀り上げる神社が登場し、北野天満宮をはじめ御霊神社がそれである。
平安時代を通じて御霊会が営まれた地として出雲路・船岡・紫野・花園・白川などが挙げられ、祇園もその一つであった。祗園祭も、そもそもは祇園御霊会の名が語るように怨霊鎮めの祭りから始まっているのである。それについては項をあらためて述べる。