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古典の日絵巻第十二巻「王朝人の暮らし」
紫式部が生きた平安時代は、天皇を中心にした皇族や貴族が華やかな世界を繰り広げていて、その様子は『紫式部日記』をはじめとする女房たちの仮名日記や藤原道長の『御堂関白記』などから知ることができます。それらの文献から王朝の世界をのぞいてみます。来年はNHK大河ドラマ「光る君へ」で紫式部が主人公に。朧谷先生のお話から垣間見える平安王朝の基礎知識をゲットしましょう!
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三月号 「この世は我が世」- 強運な男
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二月号 賜姓皇族と光源氏
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一月号 男は妻がらなり
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十二月号 紫式部と受領
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十一月号 清少納言と紫式部の家系
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十月号 外交的な清少納言と内向的な紫式部
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九月号 藤原道長と紫式部
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八月号 祇園祭と芸能
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七月号 疫病と御霊会
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六月号 賀茂祭-斎王代
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五月号 賀茂祭-路頭の儀
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四月号 紫式部が男だったら
六月号
賀茂祭-斎王代
前項で賀茂祭に斎王が登場することを記したが、ここで斎王について述べておこう。
斎王とは、即位した天皇の御杖代(みつえしろ)〈名代〉となって伊勢・賀茂両社に奉仕する未婚の内親王ないし女王を言い、前者を斎宮(さいぐう)〈7世紀後半から14世紀前半まで存在〉、後者を斎院(さいいん)と称し、ここでは賀茂祭に関わって述べるので、「斎王」は斎院を指す。斎王(賀茂の斎院)は平安遷都後の嵯峨天皇の皇女、有智子(うちこ)内親王(807∼847)を初代とし、4才で卜定(ぼくじょう)〈占いにより定めること〉され、退下(たいげ)するまでの21年間をつとめた。最後は35代の後鳥羽天皇皇女の礼子(れいし)内親王(1200∼1273)である。斎王に選ばれると宮中の初斎院(しょさいいん)で潔斎生活を1年あまり送り、鴨川で禊をして紫野に所在の斎院御所に入る。そして賀茂社の重大行事に奉仕したのである。天皇が代わったり、身内に不幸があったり、当人が病などで任務に絶えられなくなると退下する。ただ再任はあったようで、大斎院(だいさいいん)の異名をもつ村上天皇皇女の選子(せんし)内親王(964∼1035)は円融・花山・一条・三条・後一条の5代の天皇の半世紀余りにわたって斎王をつとめた。鎌倉時代初頭で斎王の制度が終わって以降の路頭の儀は、見栄えのしない殺風景なものであった。何しろ女人列がなくなったのであるから。それを憂えてのことであろうか、20世紀半ば、民間から選出された斎王代(さいおうだい)〈独身女性〉を中心とする女人列が加わり、祭列に花を添えることになった。
賀茂祭に奉仕するために前もって斎王は身を浄める禊(みそぎ)を行ったが、それを斎王御禊(さいおうごけい)と言った。二条以北の鴨川に幄舎(あくしゃ)を建てて行う例が多い。紫野の斎院から鴨川までの祭列に多くの見物人が押し寄せた。『源氏物語』(「葵」の巻)で有名な「車争い」は、この斎王御禊のさいの見物場所をめぐる争いである。「かねてより物見車心づかひしけり。一条の大路所なくむくつけきまで騒ぎたり。所どころの御桟敷、心々にし尽くしたるしつらひ、人の袖口さへいみじき見物(みもの)なり」。趣向を凝らした物見車や桟敷、その御簾からこぼれる出衣(いだしぎぬ)の袖口までが見物の対象となっている。一条大路は気もち悪いほど混雑している様子が伝わってくる。
隙間ないほどに立ち並んだ物見車。遅くにやって来た葵の上の車を立てる場所が見当たらず、車を曳いてきた従者たちは、良い場所にあった車を押しのけて、そこに自分たちの車を立ててしまった。乱暴されて押し退(の)けられたのは六条御息所(ろくじょうみやすどころ)の車であった。光源氏が祭列に顔を出すとあって、その姿を見ようと、忍んで来ていた六条御息所。人目に曝されたうえに権勢の前に泣き寝入りするしかない。その恨みは生霊(いきりょう)となって産褥(さんじょく)の葵の上に取り付いて苦しめ、男児(夕霧)を出産後に死に追いやる。
娯楽がこんにちとは比較にならないほどに少ない当時にあっては、賀茂祭などは一年のうちで最高の楽しみであったろう。それだけに場所取りも激しかった。紫式部はそういう場面に何度となく遭遇していた。『源氏物語』が多くの人に読まれ、この話がとくに有名になったとみえて後世、これを題材とした絵画をはじめ美術工芸品に活用されたのである。
斎王御禊は、こんにち5月4日に両社の御手洗川(みたらしがわ)〈下社は瀬見の小川、上社は楢の小川〉で毎年交互に行われている。
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出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
車争図屏風(くるまあらそいずびょうぶ)
重要文化財
4曲1隻(175.7×370.8)
狩野山楽筆 江戸時代・慶長9年(1604)
所蔵者:東京国立博物館