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「古典の日」からとっておきの情報や
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古典の日絵巻第十二巻「王朝人の暮らし」
紫式部が生きた平安時代は、天皇を中心にした皇族や貴族が華やかな世界を繰り広げていて、その様子は『紫式部日記』をはじめとする女房たちの仮名日記や藤原道長の『御堂関白記』などから知ることができます。それらの文献から王朝の世界をのぞいてみます。来年はNHK大河ドラマ「光る君へ」で紫式部が主人公に。朧谷先生のお話から垣間見える平安王朝の基礎知識をゲットしましょう!
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三月号 「この世は我が世」- 強運な男
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二月号 賜姓皇族と光源氏
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一月号 男は妻がらなり
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十二月号 紫式部と受領
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十一月号 清少納言と紫式部の家系
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十月号 外交的な清少納言と内向的な紫式部
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九月号 藤原道長と紫式部
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八月号 祇園祭と芸能
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七月号 疫病と御霊会
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六月号 賀茂祭-斎王代
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五月号 賀茂祭-路頭の儀
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四月号 紫式部が男だったら
四月号
紫式部が男だったら
藤原惟規(のぶのり)〈?~1011〉が子どもの頃、父の為時(ためとき)から漢籍〈漢文で書かれた書籍〉を教えてもらっていた。それを傍で聞いていた姉は、弟が覚えるのに手間どっていたのを、不思議なほどすぐに覚えてしまった。学問に熱心だった父親は、「残念なことだ、この娘(こ)を男の子として持たなかったことが悔やまれる」と、常に嘆いていた。この姉というのが、世界に誇る大長編小説『源氏物語』の作者、紫式部である。想像を超える博学ぶりは物語の数行も読めば伝わってくる。こんな姉がいたらたまらない。この話は紫式部がみずから日記〈『紫式部日記』〉に書いているのである。また、こんなことも記している。
一条天皇〈980∼1011、在位986∼1011〉が、「源氏の物語」〈書名としての『源氏物語』の初見か〉を女房に読ませて、それをお聴きになっていた時〈当時の高貴な人の読書法〉「この作者は『日本紀(にほんぎ)』を読んでいるね、すごい学識者だ」と仰った。『日本紀』とは『日本書紀』に始まる漢文体で書かれた国史書である。そこで女房たちは、私に「日本紀の局」という渾名(あだな)をつけたが、実に笑止千万なことです。実家でも侍女たちの前では漢籍を読むことを控えていたし、人前では「一」という字〈漢字でもっとも易しい字〉を書くこともしなかったのに……。
紫式部の実家の厨子(ずし)〈調度や書籍を置く戸棚〉には漢籍や物語などがぎっしりと積み上げてあり、それを一、二冊取り出して見ていると、侍女たちが集まって「御主人はこんなふうでいらっしゃるからお幸せが少ないのです。どうして女の身で「真名書(まんなぶみ)」〈漢文の書物〉など読むのでしょう。昔は、女がお経を読むのさえ人は止めたものよ」と陰口をたたかれた。当の式部は、中宮〈彰子〉に頼まれて漢詩をお教えするのにも人目を避けてこっそり行っていたという。このように自分は控え目だ、と言うのである。
紫式部が生きた時代は、天皇を中心に皇族や貴族が華やかな世界を繰り広げていた。その様子は『紫式部日記』をはじめとする女房たちの仮名日記や藤原道長〈966~1027〉の『御堂関白記』〈現存最古の自筆日記〉)など男性貴族が漢字で書いた日記などから知ることができる。それらを拠りどころとして王朝の世界をのぞいてみよう。なお、ここで用いる「王朝」とは「平安時代」〈平安王朝〉のことを意味している。
紫式部公園〈福井県越前市〉にある紫式部像は、圓鍔勝三〈人間国宝〉の作品です。紫式部の視線の先には日野岳〈比叡山と同じくらいの高さ〉があり、式部が越前の国にいる時、日野岳の雪を眺めながら京都の小塩山〈洛西にある大原野神社の裏山〉を思い出す歌を詠っています。
ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日やまがへる
『紫式部集』