「四季草花草虫図屏風」(蝶・蜻蛉)鈴木其一「春秋草木図屏風」

俵屋宗達「双犬図」※作品画像はすべて部分、細見美術館蔵

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古典の日絵巻第十二巻「王朝人の暮らし」

紫式部が生きた平安時代は、天皇を中心にした皇族や貴族が華やかな世界を繰り広げていて、その様子は『紫式部日記』をはじめとする女房たちの仮名日記や藤原道長の『御堂関白記』などから知ることができます。それらの文献から王朝の世界をのぞいてみます。来年はNHK大河ドラマ「光る君へ」で紫式部が主人公に。朧谷先生のお話から垣間見える平安王朝の基礎知識をゲットしましょう!

朧谷 壽

(おぼろや ひさし)

同志社女子大学名誉教授 日本古代史、平安時代の政治・文化 同志社大学文学部文化史学科卒業 主な著書に『源頼光』(吉川弘文館)『清和源氏』(教育社)『王朝と貴族』(集英社)『藤原氏千年』(講談社現代新書)『源氏物語の風景』『平安貴族と邸第』(吉川弘文館)『藤原道長』『藤原彰子』(ミネルヴァ書房)『平安王朝の葬送』(思文閣出版)紫式部顕彰会理事(京都) 公益財団法人古代学協会理事長 第5回から源氏物語アカデミー監修者に就任 古典の日推進委員会アドバイザー及び古典の日文化基金賞選考委員会副委員長 平成17年度京都府文化功労賞受賞 令和3年度京都市芸術振興賞受賞

四月号

紫式部が男だったら

 藤原惟規(のぶのり)〈?~1011〉が子どもの頃、父の為時(ためとき)から漢籍〈漢文で書かれた書籍〉を教えてもらっていた。それを傍で聞いていた姉は、弟が覚えるのに手間どっていたのを、不思議なほどすぐに覚えてしまった。学問に熱心だった父親は、「残念なことだ、この娘(こ)を男の子として持たなかったことが悔やまれる」と、常に嘆いていた。この姉というのが、世界に誇る大長編小説『源氏物語』の作者、紫式部である。想像を超える博学ぶりは物語の数行も読めば伝わってくる。こんな姉がいたらたまらない。この話は紫式部がみずから日記〈『紫式部日記』〉に書いているのである。また、こんなことも記している。

 一条天皇〈980∼1011、在位986∼1011〉が、「源氏の物語」〈書名としての『源氏物語』の初見か〉を女房に読ませて、それをお聴きになっていた時〈当時の高貴な人の読書法〉「この作者は『日本紀(にほんぎ)』を読んでいるね、すごい学識者だ」と仰った。『日本紀』とは『日本書紀』に始まる漢文体で書かれた国史書である。そこで女房たちは、私に「日本紀の局」という渾名(あだな)をつけたが、実に笑止千万なことです。実家でも侍女たちの前では漢籍を読むことを控えていたし、人前では「一」という字〈漢字でもっとも易しい字〉を書くこともしなかったのに……。

 紫式部の実家の厨子(ずし)〈調度や書籍を置く戸棚〉には漢籍や物語などがぎっしりと積み上げてあり、それを一、二冊取り出して見ていると、侍女たちが集まって「御主人はこんなふうでいらっしゃるからお幸せが少ないのです。どうして女の身で「真名書(まんなぶみ)」〈漢文の書物〉など読むのでしょう。昔は、女がお経を読むのさえ人は止めたものよ」と陰口をたたかれた。当の式部は、中宮〈彰子〉に頼まれて漢詩をお教えするのにも人目を避けてこっそり行っていたという。このように自分は控え目だ、と言うのである。

 紫式部が生きた時代は、天皇を中心に皇族や貴族が華やかな世界を繰り広げていた。その様子は『紫式部日記』をはじめとする女房たちの仮名日記や藤原道長〈966~1027〉の『御堂関白記』〈現存最古の自筆日記〉)など男性貴族が漢字で書いた日記などから知ることができる。それらを拠りどころとして王朝の世界をのぞいてみよう。なお、ここで用いる「王朝」とは「平安時代」〈平安王朝〉のことを意味している。

紫式部公園〈福井県越前市〉にある紫式部像は、圓鍔勝三〈人間国宝〉の作品です。紫式部の視線の先には日野岳〈比叡山と同じくらいの高さ〉があり、式部が越前の国にいる時、日野岳の雪を眺めながら京都の小塩山〈洛西にある大原野神社の裏山〉を思い出す歌を詠っています。

ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日やまがへる

 
『紫式部集』