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古典の日絵巻第十二巻「王朝人の暮らし」
紫式部が生きた平安時代は、天皇を中心にした皇族や貴族が華やかな世界を繰り広げていて、その様子は『紫式部日記』をはじめとする女房たちの仮名日記や藤原道長の『御堂関白記』などから知ることができます。それらの文献から王朝の世界をのぞいてみます。来年はNHK大河ドラマ「光る君へ」で紫式部が主人公に。朧谷先生のお話から垣間見える平安王朝の基礎知識をゲットしましょう!
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三月号 「この世は我が世」- 強運な男
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二月号 賜姓皇族と光源氏
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一月号 男は妻がらなり
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十二月号 紫式部と受領
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十一月号 清少納言と紫式部の家系
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十月号 外交的な清少納言と内向的な紫式部
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九月号 藤原道長と紫式部
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八月号 祇園祭と芸能
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七月号 疫病と御霊会
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六月号 賀茂祭-斎王代
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五月号 賀茂祭-路頭の儀
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四月号 紫式部が男だったら
三月号
「この世は我が世」- 強運な男
摂関藤原兼家〈929~90〉の5男〈同母でも3男〉に生まれた道長〈966~1027〉であったが、強運とあらゆるチャンスをつかみ30歳で政権の頂点に立った。4年後に嫡女の彰子〈12歳、988~1074〉を一条天皇〈980~1011〉に入れ〈翌年に中宮〉、入内から9年後、21歳で彰子は懐妊、出産のために40人に余る女房を伴って実家の土御門殿に里下がりした。その女房の中に紫式部もおり、彼女は道長から、皇子誕生〈道長の脳裏には皇女はない?〉の様子を記録してくれ、と依頼されて記したのが『紫式部日記』といわれている。冒頭には「秋のけはひ入り立つままに土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし」と、土御門邸の秋の風情が述べられる。里邸に来て2か月後に待望の男児〈敦成親王(あつひらしんのう)〉が誕生。狂喜の道長は夜討ち朝駆けで乳母の胸のうちで眠っている皇子を抱き取ってご満悦。ある時、抱いていたらおしっこを掛けられた。そこで袍〈一番上に着ているもの〉を脱いで几帳(きちょう)の後ろで女房に乾(かわ)かさせていた。それを見ながら「ああ、若宮のおしっこに濡れるなんて嬉しいことよ、これで思い通りになった心地じゃ」と、道長は喜んだ。ちなみに、彰子は翌年にも皇子〈後朱雀天皇〉を生んでいるので、父の栄華に最大の貢献をしたことになる。
一条天皇は4半世紀の帝位のあと32歳で崩御し、東宮が践祚して三条天皇〈976~1017〉となり、東宮には4歳の敦成親王がなった。46歳の道長は思った。病がちの自分の目の黒いうちにこの外孫の帝位を、と。悪いことに天皇にはその口実となる眼病があった。道長はそこを突いてきて再三にわたって譲位を迫った。眼病が悪化の一途をたどった天皇は、在位5年足らずで譲位することになるが、その直前の年の暮れのこと、皓々と照る月を見ながら「心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半(よは)の月かな」〈本意に反して心ならずもこの辛い世の中に生き永らえるならば、きっと今夜のこの月が恋しく思いだされるであろうよ〉
かくして敦成親王が9歳で帝位について後一条天皇〈1008~36〉となり、道長が外孫として摂政となった。この摂政はこれまでのものと異なるように思う。つまり道長はすでに政権の頂点に立って安定政権を維持しており、今さらと思うが、初孫の帝位という記念碑的な意味合いが強いように思う。それが証拠に1年で嫡男の頼通に譲っている。
2年後、11歳の天皇に20歳の威子〈999~1036〉が入り、半年後には中宮〈皇后〉に冊立〈立后〉された。威子は彰子の実妹ゆえ叔母と甥の結婚である。これは当人同士の意思によるものではなく、道長の婚姻策である。このことによって道長は三后、つまり太皇太后〈彰子〉、皇太后〈姸子〉、皇后〈威子〉をすべてわが娘で独占したのである。藤原実資〈957~1046〉をして「一家に三后を立つること未だ嘗(かつ)てあらず」と言わしめ、この後もない。史上このとき限りである。威子の立后の儀があった夜の土御門殿での宴席で道長の口を突いて出たのが「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思へば」である。しかし、道長は、翌日には目が見えにくいと実資に語っており、5ヵ月後には出家している。
後一条天皇の次に帝位に即いた弟の後朱雀天皇に道長は四女の嬉子〈1007~25、倫子腹〉を入れ〈叔母と甥の結婚〉、そこに生まれた皇子が後冷泉天皇〈1025~68〉として4半世紀近い在位を保った。このことが頼通の半世紀を超える摂関に大きく貢献したのである。その頼通は、自らは一人の天皇も生み出すことができずに宇治に隠棲したのである。