「四季草花草虫図屏風」(蝶・蜻蛉)鈴木其一「春秋草木図屏風」

俵屋宗達「双犬図」※作品画像はすべて部分、細見美術館蔵

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古典の日絵巻「第九巻:古典作品で楽しむ和菓子」

『源氏物語』『枕草子』『東海道中膝栗毛』等、皆さんご存知の古典文学のどのような場面でお菓子が登場するのでしょうか?昔と今の違いは?平安から江戸時代まで、菓子の甘味はやさしく心を和ませていたことでしょう。当時の人達が、たいせつに味わっていた様子を思い浮かべながら読み進めていきましょう。ティーブレークのお供にぴったりの中山圭子さんのお話です。本棚から古典を探して読み返したくなること請け合いです。

中山 圭子

(なかやまけいこ)

株式会社虎屋 特別理事 虎屋文庫 主席研究員

東京藝術大学美術学部芸術学科卒業。卒論のテーマに「和菓子の意匠」を選ぶ。
著書に『和菓子のほん』(福音館書店)『江戸時代の和菓子デザイン』(ポプラ社)『事典 和菓子の世界 増補改訂版』(岩波書店)などがある。

古典の日絵巻第九巻 古典作品で楽しむ和菓子

第三号 令和2年6月1日

6月 『土佐日記』とまがり
株式会社虎屋 特別理事 虎屋文庫主席研究員 中山圭子

「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」の冒頭で有名な、紀貫之(きのつらゆき/?~945)作『土佐日記』。承平四年(934)十二月に任国の土佐国を出発し、翌年二月に京都に帰るまでの体験が虚実織り交ぜて綴られています。
菓子で気になるのは、京都の山崎に着いたときの以下のくだりでしょう。

十六日。けふのよう(夜)さつかた、京へのぼるついでにみれば、

やまざき(山崎)のこひつ(小櫃)のゑ(絵)も、

まがりのおほぢのかた(像)もかはらざりけり。

「うりびと(売人)のこゝろをぞしらぬ。」とぞいふなる。

 

一般に「まがり」を唐菓子の一つ、糫餅(まがり)とし、「糫餅の店の看板は変わらないが、物を売る人の心は昔のままだろうか」と解釈されています。唐菓子とは飛鳥~平安時代に中国に派遣された遣唐使などが日本に伝えた食物で、餢飳(ぶと)、索餅(さくべい)、粉熟(ふずく)など、いろいろな種類がありました。糫餅は小麦や米粉の生地を輪のように形づくり、油で揚げたもので、現在も京都や奈良の一部の神社でお供えとして作られています。

 

「まがり」のひらがな表記だけで、読みが同じ糫餅と結びつけてよいのか疑問がわきますが、これに関しては『奇遊談』(1799)の記述が参考になるでしょう。同書によれば、山崎の八幡宮(離宮八幡宮)では、神事のお供えとして糫餅を「神供の御棚(みたな)」に盛るとのこと。作者の川口好和は上賀茂や下鴨の大社でも供えているが、山崎ではことに昔が偲ばれるとして『土佐日記』に触れ、「むかしは此地(ところ)にて売たることゝ見えたり」と書いています。江戸時代の人も、日記の「まがり」を糫餅と捉えていたことがわかります。

交通の要地として栄えた山崎は、古来、荏胡麻油(えごまあぶら)の製油・販売の地として知られていました。燈明用だったといいますが、油で揚げる糫餅の店があっても不思議ではないと思い、大山崎町歴史資料館※※に問い合わせたところ、『土佐日記』成立の頃に山崎で荏胡麻油を扱っていたかどうかは不明だそうで、糫餅の店の存在は確かめられませんでした。八幡宮での糫餅の神饌についても今や伝えられていない由。しかし同地には観音寺(山崎聖天)があり、歓喜天(聖天)に唐菓子由来の清浄歓喜団(写真)がお供えされているそうです。時代が変わっても山崎が唐菓子にゆかりのある土地だと思うと、「まがり」が、再び作られることを願わずにはいられません。

『日本随筆大成』第1期23 吉川弘文館 1976年所載。上の「糫餅」の図も見える。

※※同館によると、荏胡麻油の売買については、平安時代後期の史料に記されているという(大山崎町歴史資料館第22回企画展『離宮八幡宮と中世の油売り』図録参照)。

 

参考:森田環「糫餅について」(『和菓子』第12号、虎屋、2005年)

本文は、裏千家淡交会会報誌『淡交タイムス』(2015年3月号)に掲載された記事を加筆修正したものです。

 

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