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「古典の日」からとっておきの情報や
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古典の日絵巻「第九巻:古典作品で楽しむ和菓子」
『源氏物語』『枕草子』『東海道中膝栗毛』等、皆さんご存知の古典文学のどのような場面でお菓子が登場するのでしょうか?昔と今の違いは?平安から江戸時代まで、菓子の甘味はやさしく心を和ませていたことでしょう。当時の人達が、たいせつに味わっていた様子を思い浮かべながら読み進めていきましょう。ティーブレークのお供にぴったりの中山圭子さんのお話です。本棚から古典を探して読み返したくなること請け合いです。
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3月 『餅菓子即席手製集』(もちがしそくせきてせいしゅう)と有平糖(あるへいとう)
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2月 『東海道中膝栗毛』とみづから
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1月 『名代干菓子山殿』(めいだいひがしやまどの)と松風
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12月 『金々先生栄花夢』(きんきんせんせいえいがのゆめ)と粟餅
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11月 『助六由縁江戸桜』(すけろくゆかりのえどざくら)と煎餅
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10月 『日本永代蔵』(にっぽんえいたいぐら)と金平糖
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9月 『醒睡笑』(せいすいしょう)と饅頭
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8月 『文蔵』(ぶんぞう)と羊羹
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7月 『宇治拾遺物語』(うじしゅういものがたり)と「かいもち」(かいもちひ・掻餅)
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6月 『土佐日記』とまがり
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5月 『源氏物語』と椿餅
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4月 『枕草子』とかき氷
第五号 令和2年8月1日
8月 「文蔵」(ぶんぞう)と羊羹
株式会社虎屋 特別理事 虎屋文庫主席研究員 中山圭子
羊羹とは本来、羊肉を使った羹(あつもの・汁物)のことでした。紀元前の中国の文献にも出てくる料理名で、日本には鎌倉~室町時代、中国に留学した禅僧により点心(てんじん・食間に食べる小食)の一つとして伝えられました。禅僧は肉食を禁じられていたため、小豆や葛粉、小麦粉などを用いて、羊の羹に見立てたと考えられます。
意外なことに羹の名がつく食べ物は、羊羹だけではありませんでした。室町時代の『庭訓往来』(ていきんおうらい)などの往来物(日常生活に必要な知識を教える教科書)には、魚羹や猪羹ほかいろいろな羹が見え、どれも植物性の材料を使った精進料理と解釈されています。
こうした羹類が出てくる楽しい作品が狂言の「文蔵」です。狂言は能の合間に演じられる古典芸能で、室町時代に始まります。当時の武家や庶民の姿が笑いを交えて生き生きと表現されており、「文蔵」は、主人が京都見物をしてきた太郎冠者に、主人の伯父の家で何(食物)を振舞われたかを尋ねる話です。主人が、饂飩・素麵・熱麦・ぬる麦など、点心の名をあげると「さようの物でもござらぬ」と太郎冠者。以下、引用すると、
主人:それならば羹の類であろう。
太郎冠者:それも仰せられてみさせられい。
主人:砂糖羊羹。
太郎冠者:イイヤ。
主人:おんぜん羹・もんぜん羹。
太郎冠者:イイヤ。
主人:玉澗(ぎょっかん)・勅勘(ちょっかん)。
太郎冠者:イイヤ。
主人:大寒か小寒ばし食ろうたか。
文中のおんぜん羹は、往来物に見える「雲鱣羹」(うんぜんかん)とも考えられますが、「もんぜん羹」は不詳。玉澗は前述の魚羹、勅勘は猪羹に掛けているのでしょう。これに続き、二十四節気の大寒・小寒まで登場するのですから、「かん」つながりで、かなり脱線しています。今となってはぴんとこない言葉の連続ですが、当時の人は、おもしろおかしく聞いていたのではないでしょうか。
なお、砂糖羊羹は今でいう蒸羊羹に近いものとされますが、当時の砂糖の入手状況を考えると、さほど甘くはなかったことでしょう。菓子としての蒸羊羹が定着するのは、砂糖の輸入量が増加した江戸時代になってからです。江戸時代後期には寒天を入れて煉り上げる煉羊羹が登場。今では素材も味も様々で、意匠も凝った羊羹が各地で作られていますので、太郎冠者が知ったら、びっくりすることでしょう。昔の羹類の味も気になりますが、おいしく美しい羊羹が味わえる今の方が幸せですね。
最後になりましたが、何を振舞われたかの答えは、題名にも関わっていておもしろいので、ぜひ原典でお確かめください。
※玉澗は中国の画家の名前、 勅勘には天皇から受けるおとがめの意味がある。
参考:『狂言集上』日本古典文学大系42 岩波書店 1960年
虎屋文庫『ようかん』 新潮社 2019年
本文は、裏千家淡交会会報誌『淡交タイムス』(2015年11月号)に掲載された記事を加筆修正したものです。
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