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古典の日絵巻「第九巻:古典作品で楽しむ和菓子」
『源氏物語』『枕草子』『東海道中膝栗毛』等、皆さんご存知の古典文学のどのような場面でお菓子が登場するのでしょうか?昔と今の違いは?平安から江戸時代まで、菓子の甘味はやさしく心を和ませていたことでしょう。当時の人達が、たいせつに味わっていた様子を思い浮かべながら読み進めていきましょう。ティーブレークのお供にぴったりの中山圭子さんのお話です。本棚から古典を探して読み返したくなること請け合いです。
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3月 『餅菓子即席手製集』(もちがしそくせきてせいしゅう)と有平糖(あるへいとう)
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2月 『東海道中膝栗毛』とみづから
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1月 『名代干菓子山殿』(めいだいひがしやまどの)と松風
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12月 『金々先生栄花夢』(きんきんせんせいえいがのゆめ)と粟餅
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11月 『助六由縁江戸桜』(すけろくゆかりのえどざくら)と煎餅
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10月 『日本永代蔵』(にっぽんえいたいぐら)と金平糖
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9月 『醒睡笑』(せいすいしょう)と饅頭
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8月 『文蔵』(ぶんぞう)と羊羹
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7月 『宇治拾遺物語』(うじしゅういものがたり)と「かいもち」(かいもちひ・掻餅)
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6月 『土佐日記』とまがり
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5月 『源氏物語』と椿餅
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4月 『枕草子』とかき氷
第七号 令和2年10月1日
10月 『日本永代蔵』(にっぽんえいたいぐら)と金平糖
株式会社虎屋 特別理事 虎屋文庫主席研究員 中山圭子
『日本永代蔵』は、『好色一代男』で著名な井原西鶴(いはらさいかく・1642~93)の代表作で、元禄元年(1688)の刊行です。6巻6冊の30章から成り、町人が知恵と才覚で富をめざし、成功したり、失敗したりする話が語られます。菓子好きがわくわくするのは、巻5「廻り遠きは時計細工」の、金平糖を作って大儲けする長崎の町人の成功譚でしょう。
金平糖は、室町時代末期にポルトガルやスペインから伝わった南蛮菓子の一つ。その名は砂糖菓子を意味する、ポルトガル語のConfeitoに由来し、永禄12年(1569)、宣教師のルイス・フロイスが、織田信長に献上したことがよく知られています。砂糖が輸入品で高価だった当時、信長は異国の甘い菓子に感激したのではないでしょうか。珍重されただけに、日本でも作れないかと、長い間、様々な試みがなされたことは想像に難くありません。同書の長崎の町人が、いつ頃の時代の人かは不明ですが、「唐人」(中国人)に製法を聞いているので(教えてくれませんが)、ポルトガル人やスペイン人が追放され、鎖国体制となった江戸時代前期とも考えられます。
さて、町人は2年以上も苦労して、ようやく製法を突き止めます。それは、
まづ胡麻を砂糖にて煎じ、幾日も干し乾(かわらげ)て後、
煑鍋(いりなべ)へ蒔(まき)てぬくもりのゆくにしたがひ、
胡麻より砂糖を吹き出し、自から金餅(平)糖となりぬ。
というもの。温まっていくうちに胡麻から砂糖が吹き出す記述は、ちょっと不思議です。金平糖を売って財を成す筋は実話に基づいていたとしても、製法については想像が混じっているように思います。
なお、同書の語り口から、本の書かれた頃には、金平糖の製法が上方でも広まり、安値で買えるようになったことがうかがえます。とはいえ、当時はまだ白砂糖が高価なので、黒砂糖を使っていたのかもしれません。
金平糖の作り方について、菓子製法書の『古今名物御前菓子秘伝抄』(1718)には、 芥子の実に煮詰めた砂糖を少しずつ掛けて茶筅でかきまわすことが書かれています。茶筅では、いびつな形になりそうですね。
現在、京都の金平糖専門店、緑寿庵清水では、もち米を原料とするイラ粉を芯にし、回転する大きな釜に入れ、砂糖を溶かした蜜を掛けては乾燥させ、結晶を大きくしていくとのこと。2週間ほどかけて、きれいなイガ(角)のある金平糖を作り上げるそうです。こうした製法技術の進歩の陰には、多くの職人の苦労や創意工夫があったといえるでしょう。
※金平糖の原形ともいえるConfeitoは、現在もポルトガルで作られている。回転する鍋を使って結晶を大きくする製法は日本と同様だが、5日間ほどで完成させるため、日本製のような整った角はない。
参考:『西鶴集下』 日本古典文学大系48 岩波書店 1960年
本文は、裏千家淡交会会報誌『淡交タイムス』(2015年6月号)に掲載された記事を加筆修正したものです。
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