「四季草花草虫図屏風」(蝶・蜻蛉)鈴木其一「春秋草木図屏風」

俵屋宗達「双犬図」※作品画像はすべて部分、細見美術館蔵

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古典の日絵巻第十三巻「御簾の下からこぼれ出る女房装束」

こんにちは。赤澤真理と申します。朧谷先生からバトンを受け取り、今年から一年間、「古典の日絵巻」を担当させていただきます。
私の専門は、日本住宅史、主に寝殿造(しんでんづくり)の空間としつらい、女性の空間について研究しています。今年一年は、「御簾の下からこぼれ出る装束」を中心に、日本の住まいの文化についてひもといていきます。

赤澤 真理

(あかざわ まり)

大妻女子大学家政学部ライフデザイン学科准教授。博士(工学)。
日本住宅史・日本建築史専攻。
源氏物語絵などの物語絵巻に描かれた住まいの文化史について研究。
『源氏物語絵にみる近世上流住宅史論』(中央公論美術出版)
『御簾の下からこぼれ出る装束-王朝物語絵と女性の空間-』(平凡社)
『住吉如慶筆伊勢物語絵巻』(思文閣出版)(共著)
『伊勢物語造形表現集成』(思文閣出版)(共著)刊行予定
日本建築学会奨励賞、文部科学大臣表彰若手科学者賞。

六月号

「栄花物語」女性の賀宴に示された女房の袖口


●女性たちは御簾のなか

 平安時代の貴族は、寝殿造(しんでんづくり)という住宅様式に住んでいました。図1は、ある貴族の邸で開催された闘鶏(とうけい)の場面です。中央の殿舎が寝殿で、右側の建物のなかに男性貴族が座っています。左側の御簾を垂らしたなか、几帳(きちょう)という布のすき間から、女性の顔がのぞいています(図2)。このように高貴な女性は、御簾のなかに座っていたのです。

図1 図2
 
 六月号では、寝殿造の建物の構造を示しながら、『源氏物語』よりも、すこし後の時代『栄花物語』に描かれた女房の袖口をみていきましょう。

●詮子の四十賀と女房の袖口
 四月号で、平安時代の女房は、装束により空間を演出していたことをお話ししました。『源氏物語』ののち、『栄花物語』は、正編(1028~34年)、続編(1092~1107年)に、女房による袖口の演出はますます華やかになっていきます。

 かくて十月に御賀あり。土御門殿(つちみかどどの)にてせさせたまふ。〈中略〉
 中宮(彰子(しょうし))西の対におはしまして、院(詮子(せんし))は寝殿におはしませば、上(一条天皇)も寝殿の東の南面におはします。殿の上(倫子(りんし))は東の対におはしまして、上達部(かんだちめ)などは渡殿(わたどの)に着きたまへり。諸大夫、殿上人などは握に着きたり。院の女房寝殿の西南の渡殿にさぶらふ。御簾の際などいみじうめでたし。

(詮子四十賀(長保三年(一〇〇一)十月)とりべ野

 1001年(長保3)10月、土御門殿で女院(一条天皇母・詮子)の四十のお祝いが開催された。中宮は西の対に、女院は寝殿に、帝は寝殿の東廂(ひがしびさし)の南面を御座所(ござしょ)とした。殿の上は東の対、上達部などは、渡殿に着座している。諸大夫、殿上人などは庭の握舎(あくのや)に着席している。女院の女房たちは寝殿の西南の渡殿に着席している。御簾の際などの出衣がたいそうな壮観である。

 殿舎と殿舎をつなぐ渡殿に、女院の女房たちが座り、その女房たちの着た装束が御簾の下からこぼれ出て、華やかであった様子が表現されています。

 一条天皇母・詮子は、この年の12月22日に藤原行成(ゆきなり)の邸で崩御してしまいます。

 女房たちが座った渡殿とは、寝殿とそれに付属する対などの殿舎を連結する渡り廊下のことをいいます。図3は、渡殿に女房が座っていますが、ここに御簾を垂らし、その際装束がこぼれ出ていたものと想定されます(図4)。

図3 図4
 
●倫子の六十賀と女房の袖口
 つづいて、時代を経て、藤原道長の妻である倫子の六十のお祝いをみてみましょう。

 治安3年(1023)10月13日、殿の上(倫子)の御賀なり。土御門殿を日ごろいみじう造りみがかせたまへば、常より見どころあり、おもしろきことかぎりなし。〈中略〉
 大宮(彰子)の女房は、寝殿の北面、西の渡殿かけて打ち出でたり。皇太后宮(妍子(けんし))は西対の東面なり。殿の上の御方は寝殿の東面、中宮の御方(威子(いし))は東の対の西面、督の殿の御方(嬉子(きし))の女房、東の対、西南かけて打ち出したり。御方々の女房こぼれ出でたるなりども、千年の籬の菊を匂はし、四方の山の紅葉の錦をたち重ね、すべてまねぶべきあらず。色色の織物・錦・唐綾など、すべて色をかへ、手をつくしたり、袖口には銀・黄金の置口、縫物、螺鈿(らでん)をしたり。御几帳ども色々さまざまなり。この宮あの宮、同じ色、一つさまにもあらず、聞こえさせ合せたまへらんやうに見えて、さまかはりいみじうめでたし。

(倫子六十賀(治安三年(一〇二三)十月十三日)御賀 土御門殿(第二期))

 治安3年(1023)10月13日は、殿の上の御賀である。土御門殿をこの数日来、たいそう美しく装い立てられていた。
 大宮の女房は寝殿の北の間に、西の渡殿にかけて出衣をしている。皇太后宮は西対の東面。殿(道長)の上の御方は寝殿の東の間、中宮の御方は東対の西の間、尚侍(ないしのかみ)殿の御方の女房は東対の西南かけて出衣をしている。宮たちの女房が出衣をして袖口などを見せている装いは、千歳をことほいで籬に咲く菊花のように美しく匂い、四方の山々の紅葉を裁ち重ねたような風情で、おおよそそのままを語りつくすことはできない。色さまざまの織物、錦、唐綾など、すべて色を変えてを尽くした装いである。袖口には、銀や黄金の縁飾りをし、刺繍や螺鈿が用いられている。御几帳はどれもさまざまの色である。この宮あの宮、同じ色一様のものはなく、前もってお打ち合わせ申されたかのように見えて、趣向が変わりたいそうすばらしい。

 女性たちの場所を試みに示したのが図5です。

図5
 
 道長の妻である倫子の六十のお祝いに、その娘である彰子・妍子・威子・嬉子の女房たちが御簾の下から袖口をのぞかせています。さまざまな色の織物、錦、唐綾があり、袖口には、黄金や銀の飾り物をしています。
 女房の袖口には飾り物をつけていたようです。遠いところからも見えるようにしたのでしょうか。図6は女房の袖口に飾られた工芸装飾の再現を試みたものです。賀宴が催された殿舎は、装束で華やかに演出されていたことが想像できます。

図6

 

●派手過ぎた妍子の大饗
 他の女性たちの賀宴の様子をみてみましょう。藤原道長と倫子のあいだの次女で、彰子の妹である藤原妍子の女房たちに注目します。
 『栄花物語』わかばえ巻では、万寿2年(1025)正月23日、枇杷殿(びわどの)において、皇太后妍子の大饗(だいきょう/群臣の拝礼を受け宴を給う儀式)が開催されました。
 大饗前夜から当日にかけて、女房たちは、打出の支度に余念がありませんでした。上達部が南面の簀子(すのこ/建築の外側の濡縁)に座ることを意識して、年若い女房達は、他人の装束の色や色目のかさね具合について競争心を抱いています。部屋のある女房は局で、他の里住みの女房は、台盤所廊に、かりそめに屏風や几帳を立て、隙間無く座っていました。女房達のひいきの男性も局に入りこみ座っていました。 夜が明けたので、所々の御格子を上げたり、妻戸を押し開けたり、半蔀(はじとみ)を上げ開いたりします。髪をつくろったり、顔におめかししたりして騒ぎ立っています。また見ると、大きな袋や包みなどを、局に大騒ぎしながら取りこもうとしてうろうろしています。長持や唐櫃(からひつ)の蓋にじつにたくさんに畳み入れて、二人がかりで担いで持ってくる人もいます。一人で何枚着るつもりなのであろうかと、見る人々はあきれかえっています。さながら、学園祭の前のようなにぎわいが伝わってきます。当日の様子をみてみましょう 寝殿の御階(みはし)の間に、御几帳うるはしく立てさせたまひて、その西の間より、渡殿より、また西の対、東南面まで、一間に二人づるゐたり。御階の東の方より東ざまに折れて、水の上の渡殿までゐたり。数は知らず、おしはかるべし。 寝殿の御階の間に、御几帳を整然とお立てになって、その西の間から、また渡殿から、また西対の東南面にいたるまで、一間に二人ずつ座っていた。御階の東の方から東向きに折れて、遣水(やりみず)の上の渡殿まで座っていた。その数はわからない。 試みに図にすると、図7のようになります。殿舎いっぱいに色とりどりの装束が並んだことが想像されます。渡殿の下は、遣水という水が流れていました(図8)。用意が整うと、女主人である妍子は驚きの光景を見ることになります。
図7

 

図8

 

 事どもととのほりぬるほどに、みな例の作法にて、御前(おまへ)の方に西の対まで見わたしたまふに、さらにもいはず、衣の褄(つま)重なりて打ち出だしたるは、色々の錦を枕冊子(まくらぞうし/綴り本形式の雑記帳)に作りて、うち置きたらんやうなり。重なりたるほど一尺余ばかり見えたり。あさましうおどろおどろしう、袖口は丸み出でたるほど、火桶のささやかならんを据ゑたらんと見えたり。

(妍子大饗(万寿二年(一〇二五)正月二三日)わかばえ巻)

 準備がととのったので、すべて通例の作法どおりに始められたが、宮の御前におかれては、西の対まで見渡されると、女房たちの衣裳の褄が重なって御簾の下から出ている有様は、色の錦を枕冊子に造ってそこにおいてあるかのようである。その重なった有様は一尺余りに見えた。袖口はそれが丸みを帯びて外に出ている様子は、火桶の小さいのを置いたかのように見えた。

 拝礼の後、頼通、小野宮の右大臣(実資(さねすけ))、中宮大夫(藤原斉信(なりのぶ))東の階段を下り、南側の簀子に、下襲の裾を高欄にかけて座り、御簾の際を見てみました。

 おはしましゐて、この御簾際を誰も御覧じわたせば、この女房のなりどもは、柳、桜、山吹、紅梅、萌黄の五色をとりかはしつつ、一人に三色づつを着させたまへるなりけり。一人は一色を五つ、三色着たるは十五ずつ、あるは六つづつ七つづつ、ただ着たるは十八、二十にてぞありける。

 お座りになっていて、御簾際を誰もお見渡しになると、この女房たちの衣裳は、柳、桜、山吹、紅梅、萌黄の五つの色目を取りかわして、一人あて三色ずつを着用おさせになったのだった。一人は一色を五枚、それゆえ三色着たものは十五枚ずつ、あるいは一色を六枚ずつ七枚ずつ、したがって着ている袿の枚数は十八枚、二十枚にもなるのだった。

図9

 
 女主人である宮の御前は、呆れるよりほかなく、恥ずかしく思ったといいます。女房達の服装の華美に対して、実資は頼通に驚きを伝え、頼通は妍子に女房の装束は六枚以上を許してはだめだといいます。話を聞いた道長も立腹して、頼通の不行き届きを責めました。華やかすぎる袖口は、行き過ぎた行為だと考えられていたのです。

 「場にふさわしく、行事に華やぎを添える」今日における装いも難しいものですが、それにつながってくる感覚だと思いませんか。


引用図版
本文・現代語訳は、『新編 日本古典文学全集』小学館から引用させていただきました。

図1・2・3・8 「年中行事絵巻」巻三、大妻女子大学図書館蔵
図4 「年中行事絵巻」巻二、大妻女子大学図書館蔵
図6 民族衣裳文化普及協会蔵
図5.7 平面図は概念図
図9 風俗博物館写真提供

主な参考文献
平井聖『日本住宅の歴史』NHKブックス、1974年
野田有紀子「平安貴族社会における「襲の色目」」お茶の水女子大学「魅力ある大学院教育」イニシアティブ人社系事務局、2007年
川本重雄「寝殿造の中の女性の空間」歴博、No.151、2008年
吉住恭子「「打出」-女房装束による美の演出とその歴史的変遷」『瞬時をうつすフィロソフィー風俗絵画の文化学III』思文閣出版、2014年
藤田勝也『平安貴族の住まい―寝殿造から読み直す日本住宅史』歴史文化ライブラリ―520、2021年
赤澤真理『御簾の下からこぼれ出る装束―王朝物語絵と女性の空間―』ブックレット書物をひらく19、平凡社、2019年
「再現!姫君の空間—王朝装束の華やぎと輝きの世界へ—」斎宮歴史博物館、2021年。(文化庁Living Historyの助成を受け、打出を再現。河田昌之・赤澤真理・伊永陽子・森田直美・榎戸由樹考証。民族衣裳文化普及協会蔵)
赤澤真理「住吉広行筆「栄花物語舞楽図」にみる〈打出〉という演出-十九世紀における寝殿造への復古をめぐって」日本文学研究ジャーナル、27、2023年
『源氏物語 THE TALE OF GENJI-「源氏文化」の拡がり 絵画、工芸から現代アートまで―』東京富士美術館、2024年