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古典の日絵巻第十三巻「御簾の下からこぼれ出る女房装束」
こんにちは。赤澤真理と申します。朧谷先生からバトンを受け取り、今年から一年間、「古典の日絵巻」を担当させていただきます。
私の専門は、日本住宅史、主に寝殿造(しんでんづくり)の空間としつらい、女性の空間について研究しています。今年一年は、「御簾の下からこぼれ出る装束」を中心に、日本の住まいの文化についてひもといていきます。
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十一月号 歌合・絵合における女房の出衣
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十月号 「源氏物語絵巻」柏木(三)にみる薫の生誕五十日のお祝い
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九月号 『紫式部日記』にみる紫式部の局
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八月号 「小野雪見御幸絵巻」にみる皇太后歓子のおもてなし
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七月号 「駒競行幸絵巻」にみる彰子の座
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六月号 「栄花物語」女性の賀宴に示された女房の袖口
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五月号 庭園にみる「八橋」の意匠-京都仙洞御所の場合
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四月号 源氏物語の場合に示された女房の袖口
十一月号
歌合・絵合における女房の出衣
11月号では、歌合(うたあわせ)・絵合(えあわせ)の行事において、御簾の中に座った女性たちの姿をみていきましょう。
●天徳4年(960)内裏歌合
平安時代10世紀から11世紀において、左方(ひだりかた)と右方(みぎかた)に分かれて、和歌の優劣を競い合う歌合という行事が開催されました。歌合では、時に女性が主催者となり、そこに男性が参加しました。
歌合に女性が参加する場合、外から姿が見えないように、御簾の中に座るという配慮がなされました。女房が歌を詠み上げる場合には、御簾を一尺五寸(約45センチ)ばかり巻き上げて歌を詠み上げた話が伝わっています{亭子院(ていじのいん)歌合(913年)}。
数ある歌合の中でも、後世に規範とされた、村上朝(むらかみちょう)に開催された天徳4年(960)の内裏歌合は、村上天皇を中心に、女房・公卿・殿上人・殿上童(てんじょうわらわ)・楽所(がくそ)の召人など89名もの人々が参加しました。
清涼殿の西廂(にしびさし)である、鬼間(おにのま)、台盤所(だいばんどころ)、朝餉間(あさがれいのま)の七間に御簾を垂れ、会場としました(図1)。台盤所二間と鬼間二間を左方女房、朝餉の二間を右方女房の座とします。女房方人頭(かたうどがしら)は、左は中将更衣藤原脩子(しゅうし)、右は弁藤原有序(ゆうじょ)で、左右各14人が座りました。中央に村上天皇のために台盤所の椅子を置きました。
清涼殿と後涼殿をつなぐ小庭に注目すると、音楽を奏でる楽人たちは、庭に直接に畳を敷いて座っています。楽人達は建物に昇る(昇殿)ことができませんでした。時には、建物の周囲の苔の上に座ることもありました。寝殿造の空間は、身分によって、進入できる領域が定められていたのです。
女性の座はどこにあったのでしょうか。女房は清涼殿西庇、御簾の内から赤系と青系の装束を着用していました。御簾の下からは赤と青の装束がこぼれ出ていたことが想像されます。
【図1】 |
●「源氏物語」絵合にみる女房
天徳4年内裏歌合をもとにして書かれたのが『源氏物語』絵合巻です。光源氏と権中納言が後見する斎宮の女御と弘徽殿女御が左と右に分かれて、絵を競い合いました。
女房のさぶらひに御座(おまし)よそはせて、北南方々分かれてさぶらふ。殿上人は後涼殿(こうりょうでん)の簀子(すのこ)におのおの心寄せつつさぶらふ。左は紫檀(したん)の箱に蘇芳(すほう)の華足(けそく)、敷物には紫地の唐の錦、打敷は葡萄染(えびぞめ)の唐の綺(き)なり。童六人、赤色に桜襲の汗衫(かざみ)、衵(あこめ)は紅に藤襲の織物なり。姿、用意などなべれならず見ゆ。右は沈の箱に浅香(せんこう)の下机、打敷は青地の高麗(こま)の錦、あしゆひの組、華足の心ばへなどいまめかし。童、青色に柳の汗衫、山吹襲(やまぶきがさね)の衵着たり、みな御間にかき立つ。上の女房前後と装束き分けたり。
清涼殿の女房の控え所に、帝の御座をしつらえて、北と南に分かれて人々は座っています。殿上人は後涼殿の簀子にいます。こうした座所は、天徳内裏歌合を参照していて、左方は赤系の調度・装束、右方は青系の調度・装束で統一しています。
図2は、狩野晴川院(養信)筆「源氏物語図屏風(絵合・胡蝶)」(東京国立博物館蔵)です。晴川院は、幕末の狩野派を代表する絵師であり、平安時代の様相を復古的に描いた絵画表現が特徴的です。画面をみてみましょう。
【図2】 |
画面右上の金雲の下に、黒の浜床(はまゆか・貴人が座臥するための台)と繧繝縁(うんげんへり)の畳の上に茵(しとね・方形の敷物)があり、冷泉帝(れいぜいてい)の御座が描かれています。天徳内裏歌合では椅子でしたが、本屏風では御帳台(みちょうだい)を描いています。
中央の文箱は左側が青系の右方、右側赤系の左方で、帝の御座からみて左が赤、右が青に表現されており、源氏物語本文が反映されています。男性は、左方の光源氏の内大臣と、右方の権中納言(頭中将)、師宮(そちのみや、光源氏の弟)。箱の前には、光源氏方の斎宮女御(梅壺)、権中納言方の弘徽殿女御が座っています。(【図2-1】)画面の左の障子がすこし開いています。(【図2-2】)
【図2-1】 | 【図2-2】 |
「朝餉の御障子(みしょうじ)を開けて、中宮もおはしませば」とあることから、源氏物語本文を表現したものと考えられます。清涼殿朝餉(あさがれい)の間は、ちょうど、右方女房のいた空間であり、女房たちの後ろに座る扇を持った女性は中宮(藤壺)の可能性もあります。
障子や屏風は、近世風の金碧(きんぺき)ではなく、紺を引いた紺引きで表現されています。絵師である晴川院が鎌倉時代の絵巻物等から考証して、平安風に描いています。他にも丸柱であること、床に畳を敷き詰めず板敷きであることなども、晴川院が平安時代の寝殿造を考証して描いたことが窺えます。
平安時代では、女性たちの空間に御簾が下がり、姿は見えないようになっていたと考えられますが、江戸の画家である晴川院が考証した、絵合の様子が伝わってきます。
●皇后宮寛子春秋歌合
天徳4年の内裏歌合の後、一条・三条・後一条・後朱雀四代の天皇にわたり、晴儀(せいぎ)歌合は減少してしまいます。その後、藤原頼通を後見とする後冷泉朝に、歌合が復活し、女房の出衣が記録にみられるようになります。
天喜4年(1056)4月30日の皇后宮寛子春秋歌合をみていきましょう。
皇后宮寛子春秋歌合は、春と秋を意匠とした文台・算刺(かずさし)及び装束で統一し、和歌を意匠とした装束を製作するなど、特にその華やかさが記録に記載されています。皇后寛子の父である頼通が後見し、天皇も密々に御覧になりました。
この歌合は、寛子の御座所である新造の一条院内裏東面を会場としました。東面の壁を除去し御簾を垂れ、後冷泉天皇皇后寛子が座ります。【図3】
寛子の座所は「大床子の間」(『廿巻本』)とあることから、おそらく大床子(だいしょうじ・天皇が食事や理髪などのときにすわる脚のついた台)が置かれた母屋の東面で、取り去った壁は塗籠(ぬりごめ、寝殿造の中で壁と扉に囲まれた閉鎖的な空間)の可能性があります。
廂の東面に御簾に沿って几帳(菖蒲かさね)を立て、東広廂の中央の間を空けました。その南北に文台(銀の州浜に花樹木・人形・銀の舟、銀の茵に瑠璃の鏡台)及び算刺(銀の州浜台に春の田の様、銀の州浜に瑠璃の遣水・秋の花)を置きました(『栄花物語根合巻』)
御座を中心に、東廂の北に左方女房5人、南に右方女房5人、南廂に左方・右方5人の女房が座りました。左は春の各色を織り、右は秋の紅葉色を織り、造り物・刺繍・金銀珠玉瑠璃を縫いました。
国文学者・萩谷朴氏は、女房歌人が東廂と南廂に分かれて座った要因として、南渡殿の頼通・大臣座から、春・秋の装束が鑑賞できるような配慮がなされていたと指摘されています。森田直美氏は、「一人ひとりが異なる意匠で新しい試みであった」としています。
図5は、本歌合の春方、信濃女房の装束を再現したものです。『栄花物語』根あわせ巻の信濃女房「紅梅どもに、紅の打ちたる、萌黄の二重文の紅梅の象眼の唐衣、薄色の二重文」をもとにしています。図4の袖口の飾りは、『四条宮歌合』(二十巻本)の「梅重ねは、鴬鳴かせ、絵を描いたり」をもとにしています。
趣向を凝らした女房の装束は、歌合に花を添える空間演出でした。男性貴族たちも、女性たちの装飾を許容し、ひとつの場を共有していたのです。
【図3】 |
【図4】 | 【図5】 |
主な参考文献
赤澤真理『御簾の下からこぼれ出る装束―王朝物語絵と女性の空間』(ブックレット書物をひらく19、2019年)
萩谷朴『増補新訂 平安朝歌合大成』(同朋舎出版、1995~1996年
森田直美『平安朝文学における色彩表現の研究』(風間書房、2011年)
『特別展開館四十周年 源氏物語 THE TALE OF GENJI-「源氏文化」の拡がり 絵画、工芸から現代アートまで―』(東京富士美術館、2024年)
【図1】天徳4年内裏歌合想定図(『日本建築史図集』(彰国社)から作図)
【図2】出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
【図3】参考 萩谷朴『増補新訂 平安朝歌合大成』(同朋舎出版、1995~1996年)を基に作図。平面構成、弘廂の位置、東渡殿、南渡殿の位置が不明のため、試案としている。南側を正面に南弘廂が付く構成も想定される。