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古典の日絵巻[第五巻:日々のなかの古典]
古典の日絵巻〔第5巻:日々のなかの古典〕をスタートいたします。
風土と歴史に育まれた京都の日常に溢れる古典について、NPO法人京都観光文化を考える会・都草の坂本孝志理事長に12回シリーズで執筆していただきました。ひっそりとたたずむ知られざる京都をお楽しみください。
第一号 平成28年4月1日
権中納言敦忠の山荘跡
大納言藤原
谷崎潤一郎が、この『今昔物語集』(時平の大臣、國經大納言の妻を取る語)を題材として書いた小説『少将
年を経てある日、滋幹は叡山の横川からの帰り道、
敦忠は、藤原時平が北の方に生ませた子で、百人一首、「逢ひ見てののちの心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり」の歌で知られた人物である。
一方、時平も敦忠も若くして亡くなり、尼となった北の方はその後この山荘の近くに庵を結んで暮らしていた。
「もし、・・・・ひょっとしたらあなた様は、故中納言殿(敦忠)の母君ではいらっしゃいませんか」
滋幹は、見かけた尼僧に近づき声をかけた。
幼い頃に別れて以来思慕しつづけてきた母に、滋幹は図らずも四十年ぶりに月明かりに浮かぶ満開の桜の下で再会したのだった。
比叡山の麓、京都市左京区一乗寺の雲母坂(現在は
NPO法人京都観光文化を考える会・都草
理事長 坂本 孝志
「雨にぬれ赤みを帯びる班女塚」
塚の前に立つのは、執筆者の坂本孝志さん
第二号 平成28年5月9日
班女塚
「繁昌神社」(京都市下京区高辻通室町西入)の西北にある「
「今は昔、
妹は建物南側の西の
「班女塚」は少なくとも800年以上前には此の場所にあった。かって豊臣秀吉が東山
班女塚が動かない理由は、永遠の謎である。いつの頃よりか、結婚話のある女性がこの前を通れば、破談になるという言い伝えがある。
NPO法人京都観光文化を考える会・都草
理事長 坂本 孝志
阿佛尼公の墓石と、高さ八尺の石碑(寶歴七年四月建立)
第三号 平成28年6月1日
阿仏尼公の石塔
『
為家の死後、長子である先妻の子為氏と、わが子
阿仏尼は、行く先々の風景や地名などを歌に詠みながら、14日間の旅日記をつづった。それが日記文学・紀行文学として名高い『十六夜日記』である。
阿仏尼は、弘安6年(1283)4月に鎌倉で没したとされ、その墓は鎌倉市の英勝寺の近くにある。しかし、京都の
大通寺(通常は非公開)はもと、
つまり、かって阿仏尼公の石塔のあった場所は、今はその上を電車が走っている。
NPO法人京都観光文化を考える会・都草
理事長 坂本 孝志
大船鉾巡行(平成26年)と「安曇磯良の天冠」
第四号 平成28年7月5日
祇園祭余話(安曇磯良の天冠)
祇園祭山鉾巡行のとき、
神功皇后が新羅を攻めるために、天神地祇を常陸の鹿島に招いて
そして磯良は竜宮城の宝である
大船鉾は元治元年(1864)の禁門の変で木部を焼失して以来、巡行を休止していたが、町衆の努力により平成26年に150年ぶりに復興を果たした。幸いにも一部の懸装品と主祭神である神功皇后の御神面は焼失を免れていた。
復興後はじめて大船鉾が都大路にその姿を現したとき、沿道の人々からは大きな歓声があがった。そのとき、四条町大船鉾保存会理事長(松居米三氏)は、安曇磯良が立たれるはずの舳先の右舷に座し、大船鉾巡行の安全を祈念していた。
その膝の上には、8名の有志の寄付によりすでに完成していた「安曇磯良の天冠」が置かれていたのである。
NPO法人京都観光文化を考える会・都草
特別顧問 坂本 孝志
権現堂と津子王丸像(画像提供 権現寺)
第五号 平成28年8月1日
朱雀の権現堂
『太平記』巻八(四月三日合戦の事)にその名が見える“
権現堂は、森鷗外が著した安寿と厨子王の物語『山椒大夫』にも登場する。
中世に始まったとされる大衆芸能の説経節に『さんせう太夫』という演目があり、その中で、丹後由良の山椒大夫のもとから逃れてきた厨子王が、国分寺の僧の助けにより朱雀の権現堂に辿り着いたという場面が語られてきた。小説『山椒大夫』はこの『さんせう太夫』の
また、権現寺蔵『朱雀権現堂縁起(火印地蔵菩薩事 世俗号金焼地蔵)』は、厨子王が朱雀の権現堂に着いたとき、山椒大夫によって額に押されていた金焼の疵が消え、肌身離さず持っていた守り袋の中の地蔵菩薩の尊顔に金焼の跡があった、という霊験譚を伝えている。
権現堂の本尊勝軍地蔵の脇にはその「身代り地蔵菩薩」と、後に立身出世した姿の「
先日、取材のために同寺を訪れたとき、境内に「さんせう太夫」を語る往時の説経節の声が聞こえてくるような気がした。
NPO法人京都観光文化を考える会・都草
特別顧問 坂本 孝志
九條池に浮かぶ厳島神社
唐破風鳥居の上部
第六号 平成28年9月6日
京都御苑の厳島神社
明治二年(1869)の東京遷都に伴い、京都御所周辺にあった皇族、公家の邸宅はほとんどが東京へ移転した。その後御所は荒廃し、門跡寺院の里坊などを含め200軒ほどが櫛比していたこれらの「公家町」は消滅した。
明治十年(1877)に「大内保存事業」が始まり、公家町の跡地は整備されてほぼ現在の「国民公園 京都御苑」の姿になった。京都御苑の中に残っている明治以前の建物は、御所の他には蛤御門や寺町御門などの高麗門、九條家の茶室「
その中のひとつ九條家の旧邸宅跡に残っている厳島神社は、
当神社は天明八年(1788)の京都大火の時に資料の大半を失っているが、昭和九年発行の『京都神社誌』(社寺研究會)には「九條家祖先の勧請にして、由緒詳かならざるも傳ふる處によれば、平相國清盛公安藝の厳島大神を崇敬し攝津兵庫の築島に一社を設けて神靈を勧請し、側らに清盛公の母儀祇園女御を祀る、後この拾翠亭池の島中に遷座あり、此地は旧九條家の邸に属せしより自らその鎮守となると」と記されている。御苑の厳島神社には母を大切にする清盛の思いが込められている。
なお社前の石鳥居(重要美術品・室町)は古雅の趣があって、笠木(鳥居の上部)が唐破風形となっているのが珍しく、京都の三珍鳥居のひとつとして名高い。
NPO法人京都観光文化を考える会・都草
特別顧問 坂本 孝志
百人一首かるた 江戸時代 小倉百人一首文化財団蔵
勧学院址の石碑 | 雀塚 |
第七号 平成28年10月1日
藤原実方と更雀寺(雀寺)
小倉百人一首「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな もゆる思ひを」(注-1)の作者として知られる
実方は左大臣藤原
鎌倉前期の説話集『古事談』は、実方と藤原行成が殿上で口論となり、その時実方が行成の冠を取って小庭に投げ捨てるという乱暴をはたらいた。この様子を
その後、実方の強い望郷の思いは“雀” と化して、神泉苑の西側にあった勧学院の森(現在の中京区西ノ京勧学院町)に飛んで来たという。勧学院は藤原氏累代の教育機関であり、後にその跡地に
京都の人々は藤原実方ゆかりの更雀寺を、親しみを込めて「雀寺」と呼ぶ。
(注-1)「こんなにもお慕いしているということだけでもあなたに伝えたいのに、伝えられない。あなたはご存じないでしょうね、伊吹山のさしも草のように燃えている私の思いを」
※さしも草というのは、お灸の原料となる“よもぎ”の別名です。
NPO法人京都観光文化を考える会・都草
特別顧問 坂本 孝志
紅葉の今宮神社と「玉の輿お守」
勧修寺の山門
第八号 平成28年11月1日
京都の「玉の輿」伝説
京都には二人の女性に関わる有名な「玉の輿」伝説がある。一人は徳川三代将軍家光の側室となり、徳松君(後の五代将軍綱吉)を生んだ「たまの
桂昌院は、将軍の生母として元禄十五年には従一位まで昇りつめ、京都の多くの社寺の修復、西陣の振興、葵祭の復興などに力を注いだ。また、やすらい祭りで知られる今宮神社本殿前の燈籠に彫られている「常刕(州)笠間城主 従四位下本庄因幡守藤原
もう一人は、
NPO法人京都観光文化を考える会・都草
特別顧問 坂本 孝志
粟嶋堂
謝蕪村の句碑 | 富岡鉄斎揮毫の扁額「風有心」(画像提供:粟嶋堂宗徳寺) |
第九号 平成28年12月1日
与謝蕪村の句碑(粟嶋堂)
「菜の花や月は東に日は西に」などの句で知られる俳人で画家の与謝蕪村は、享保元年(1716)に攝津国
蕪村は20歳前に故郷を離れて江戸へ行き、「布団着て寝たる姿や東山」の句で有名な
36歳から京都の四条烏丸東入に移り住み、天明三年(1784)十二月に68歳で歿した。(この間、丹後や讃岐に滞在していた時期もある)
「粟嶋へはだしまゐりや春の雨」
この句は、蕪村がひとり娘(くの)の病気平癒祈願のために、粟嶋堂
粟嶋堂は、お寺の『ご由緒』によると「宝徳年間(今から約600年前)に
やわらかい春の雨に濡れながら、境内の石畳を素足で「お百度参り」をする様子を描いたこの句は、古くからの淡嶋信仰の姿を彷彿とさせる。粟嶋堂はかっての島原遊郭に近く、素足の主はこの島原に住む女性だったのかもしれない。
粟嶋堂へは多くの貴人、有名人も参拝に訪れている。その中のひとり、文人画家の富岡鉄斎が寄進した扁額が、今も寺に残されている(扁額は非公開)
NPO法人京都観光文化を考える会・都草
特別顧問 坂本 孝志
関蝉丸神社上社
関蝉丸神社下社のご朱印 | 琵琶の形の「お守り」 |
第十号 平成29年1月1日
逢坂関と蝉丸神社
歌枕として名高い
逢坂関は平安時代より鈴鹿関、不破関とともに三関の一つとされ、山城と東国・北陸を結ぶ交通の要衝であった。百人一首「これやこの行くもかへるも別れてはしるもしらぬもあふ坂の関」(後撰集)の蝉丸の歌で有名である。『枕草子』にも(関は逢坂)とあり、『源氏物語』の「関屋」はこの逢坂関が舞台となっている。蝉丸は『今昔物語』巻第二十四には、宇多法皇の皇子
逢坂峠には三つの蝉丸神社が祀られている。一つは峠の頂の少し大津側にある「関蝉丸神社上社(猿田彦命・蝉丸)」で、さらに800mほど下った大津市内に「関蝉丸神社下社(豊玉姫命・蝉丸)」がある。また京都側の大谷にも「蝉丸神社(蝉丸)」があって、こちらは分社であるという。ともに蝉丸を祀ることから、主に歌舞音曲・芸能の神社として信仰されている。
私が訪れたのは紅葉がまだ残る12月初旬のことで、三社とも境内は森閑としていた。神職が不在のために、滋賀県神社庁(大津市小関町)で関蝉丸神社の宮司にお目にかかり御朱印とお守りをいただいた。その時の「社殿を修復し、祭祀を厳修したい」と熱心に語る若い宮司の姿は忘れられない。
NPO法人京都観光文化を考える会・都草
特別顧問 坂本 孝志
(上)御簾の奥に袿(うちき)姿の女三の宮が見える
(下)柏木は階の右側にいて、女三の宮のほうを見ている
写真提供:風俗博物館
第十一号 平成29年2月1日
平安貴族と猫
最近は“猫ブーム”だそうだ。平安時代、貴族生活の絶頂期で、宮廷文化が花開いた頃に在位していた一条天皇(980~1011)もたいへん猫が好きだった。それも周りの人々があきれるほどの猫好きで、子猫が生まれると大臣たちを集めて
紫式部はその一条天皇中宮彰子に仕えていたから、この有様を知っていたであろう。源氏物語の「若菜上」には、桜の花が雪のように散る
の庭で蹴鞠が行われていた時、幼い唐猫が大きな猫に追われ、つながれていた綱を引っ張ったはずみに寝殿の御簾を引き上げてしまうという場面が有る。そしてその瞬間に御簾の中の女三の宮(光源氏の正妻)の姿が柏木(
『
猫はかわいらしくて愛すべき動物だが、何となく不気味なところがある。「猫はひとりで爪を隠してこっそり忍び寄ったり、物陰に隠れて待ち伏せしたりする。それを陰険と思われても仕方がない。これはその狩猟法に由来する猫の宿命である」と、『猫の歴史と奇話』に平岩米吉氏が書いている。
NPO法人京都観光文化を考える会・都草
特別顧問 坂本 孝志
法界寺阿弥陀堂内陣の壁画(重文)
「法界寺壁画写真集より」
第十二号 平成29年3月1日
京都と天女
平安時代の初期、僧正
天女といえば、謡曲『羽衣』で知られる静岡県三保の松原の羽衣伝説が想起される。また滋賀県の余呉湖や、京丹後市峰山町の
寺院が多い京都では、しばしば天女に出会う。堂内の壁画や天井画、欄間や光背の彫刻、梵鐘の浮き出し図など、様々な場所で妙なる音楽を奏で、散華し、霊香を漂わせている。西洋のエンジェルや、ギリシャ神話のイカロスには翼があるのに対し、日本各地の風土記などの伝承にみられる天女、仏堂や仏像を荘厳するこれらの天女は、雲に乗り、あるいは天衣を翻しながら虚空を舞う。
毎年多くの観光客が見物する祇園祭綾傘鉾の綴錦「飛天図」の原図は、法界寺(京都市伏見区日野)の国宝阿弥陀堂内陣の壁に描かれている天女たちである。
第五巻の最終号にあたり、毎回校正をお願いした京都産業大学日本文化研究所特別客員研究員の深澤光佐子さんと、写真撮影と全般的なアドバイスをいただいた都草理事長の小松香織さんに心より感謝申し上げる。